なぜソ連国民は共産党の青年組織に加わったのか:「コムソモール」が創設されて105年

Dmitry Donskoy / Sputnik
 コムソモールは1918年10月29日に創設され、73年間存続し、その間に計1億6千万人超の団員を擁した。ロシアの若者にとってコムソモーレツ(コムソモール員)になるのは名誉なことだったのか、それとも何かの利益があったのか?

 草創期のソビエト国家は、問題を抱えた若者たちの国だったと言えよう。悲惨極まる戦争から帰還した若い兵士、親のいない青少年、勉強するために大都市に行ったが革命の混乱で帰郷できなくなった学生…。彼らは皆、事態が収拾され、自分たちもこの大いなる社会的変革に参加して、新しい未来の創造において自身の意見を発信したいと思っていた。また、これらの大勢の若者は、犯罪に走りやすい傾向もあったから、ボリシェヴィキ政権は、この増大する問題に何らかの形で対処しなければならなかった。

ナデジダ・クルプスカヤ

 ボリシェヴィキ革命に先立つ1917年6月、ソ連の建国者となるウラジーミル・レーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤは、「ロシア青少年勤労者同盟規約」を書き、それは、ボリシェヴィキの機関紙「プラウダ」に掲載された。

 この規約によれば、「労働力を売って生計を立てているすべての少年少女は、ロシア青少年勤労者同盟に組織される」。クルプスカヤによると、同盟の目的は、「同盟の会員が、自由で責任ある市民、偉大なる闘争の正当な参加者となるよう準備すること。その闘争を、彼らはプロレタリアとして、資本のくびきからの解放を目指しつつ導くはずである」

誰がコムソモールに入ったか

コムソモールの第3回大会を訪れるレーニン

 クルプスカヤが規約を書いた後、ロシアのさまざまな街で、青少年勤労者のさまざまな小組合がつくられた。そして、コムソモールは、1918年10月29日に正式に創設された。

 この組織は、正式名称を何度か変えたが、一般的には、「コムソモール」(共産主義青年同盟)として知られていた。1920年の規約によれば、14歳から23歳までの、共産主義の理想を支持する者は誰でも団員になれると定められていた。

 レーニンは、1920年10月にコムソモールの第3回大会を訪れ、熱弁を振るった。「主たる目標は、共産主義の研究である。しかしそれは、教育と訓練のあらゆる段階を、旧弊な搾取社会に対するプロレタリアと労働者の継続的な闘争に結び付けることにほかならない」

 この時点で、コムソモール員は約50万人になっていた。しかし、実際のところ、何が人々をこの組織に参加させたのか?

コムソモール員、1920年代

 初期のコムソモール員は概して、共産主義建設に熱意をもっており、そのために戦う用意があった。コムソモールの活動家の一人、セルゲイ・クルキンは、1919年に特殊部隊が創設され、コムソモール員がそれに組み込まれたことを回想している。このような部隊は、ロシア全土で「赤軍を支援するために」編成されたが、実際にはこれは、共産主義を信奉する農民と労働者が合法的に武装したということだった。
 この部隊は、反革命勢力、つまり白軍や食料挑発を拒んだ農民と戦った。今や内戦は本格化していた。

「私はコムソモール員だ。私を恐れ、従うがいい!」

 しかし、大抵の場合、初期のコムソモールは、あまりヒロイックとは言い難いやり方で使われた。タンボフ出身の歴史家ウラジーミル・イッポリトフによれば、1930年代初頭以来、タンボフ周辺のコムソモールが農業集団化の実施――裕福な農民から、あからさまな残酷さで資財と食料を奪う――に利用されていた。

 「地方の党とソビエト政権は、若者たちに残酷極まる汚い仕事をさせた」と、イッポリトフは記している。「農民の財産が“収用”され、それがコルホーズの所有になるはずだったが、これは強盗に他ならぬことが判明した。当局の後押しを感じていたコムソモール員は、あたかも自分たちが村の所有者であるかのように振る舞った。オルロフスキー地区では、セミョーノフというコムソモール細胞の書記が、『私はコムソモール員だ!』と言って女性を殴った。『私を恐れ、従うがいい!』」

 では、若者たちは銃を手に入れるためにコムソモールに入ったのか?必ずしもそうではなく、むしろソビエト国家内でキャリアを築くためだった。しばしば「共産党の助っ人および予備軍」と呼ばれたコムソモールは、ソ連共産党のそれに似た巨大な官僚組織をもっていた。そして、この組織で良い仕事をすればするほど、何の障害もなく共産党に入党できる可能性が増した。

 「我々のコムソモールの指導者(1970年代のモスクワ国立教育大学における細胞のトップ)は、共産党入党を目指していた」。こう振り返るのは、モスクワ出身の歴史学博士ガリーナ・ウリヤノワだ。

 「当時、歴史学の専門家として働くには、党員である必要があった。そうでなければ、アーカイブを見ることさえできなかった!そして、コムソモール組織でのキャリアは、入党に大いに役立った」

コムソモールの団員証を受け入れる

 1926年、コムソモールは、「全連邦レーニン共産主義青年同盟」と正式に命名された。団員の年齢は28歳(ただし、コムソモールの職員はそれ以上でも可)に引き上げられ、月額2コペイカ(当時のアイスクリームコーンの値段)の会費が導入された。 
 しかし、コムソモールの草創期には、親たちは、子供がこの組織に入るのに断固反対だった。「母親たちは、我々の組合が共産主義だと知ると、息子たちを殴った…。そこで、コムソモールの代表が詰めている小屋に、当惑した少年少女たちがやって来て、頭を下げてこう頼んだ。『コムソモールから私を除外してください。両親は私の参加を許しません…』

 まあ、コムソモール当局は、こんな理由は考慮しなかっただろうが。

コムソモール員は何をしていたか

バイカル・アムール鉄道(バム鉄道)の建設に参加するコムソモール員

 農業集団化の次に初期のコムソモールがやるべきだったのは、団員の教育だ。1930年代には、何万人もの若者が専門学校で初等教育を受け、コムソモール組織がそのプロセスを監督した。

 各高等学校のコムソモール組織は、生徒の夏休みの間に「建設旅団」を編成し、さまざまな仕事に派遣した。1930年代にこれらの旅団は、マグニトゴルスク製鉄所、ドニエプル水力発電所、そしてモスクワ地下鉄といった重要施設の建設に加わった。1970年代、コムソモール旅団は、バイカル・アムール鉄道(バム鉄道)の建設を盛んに支援した。

 しかし、これほどの大建設に加わるチャンスがあった者はほんの一握りだった。ふつう、コムソモール旅団は、農作業を手伝うために畑に出かけた。これは「ナ・カルトーシュク」(ジャガイモ用)と呼ばれた。実際、大半のコムソモール員にとっては、ジャガイモ(さらにニンジン、カブ、キャベツなども)を選別して掘り出すのが、夏によくある活動だった。

ジャガイモを掘り出すモスクワ大学のコムソモール員

 当局は、農業や建設だけでなく、主に共産主義イデオロギーを若者に広めるために、若い団員を必要としていた。ガリーナ・ウリヤノワによると、コムソモールは、定期的に政治的な集会を開いていたという。

 「我々は、だいたい自分たちがとりあげたいと思うものについてレポートを作成した。たとえば、アメリカ映画についてのレポート。そして少なくとも月に一度は集まって、政治情勢についてレクチャーした」

 コムソモール員は、学校や大学の文化活動にも大きな役割を果たした。

 「学校当局と協力して、さまざまなスポーツ大会や休日の行事を準備し、軍事的、愛国的なゲーム『ザルニツァ』を企画した。また我々は、国のすべての重要な祝賀行事にも参加した」。元コムソモール員のタチアナ・コロリョワは回想する。

 「メーデーの5月1日、戦勝記念日の5月9日、革命記念日の11月7日が主な祝日だった。祝日の朝、全員が職場に行き、そこで隊列を組んで、共産主義の祝賀集会のために、市の中心部に赴いた」

ソ連版ソーシャルネットワーク

 第二次世界大戦が終わると間もなく、コムソモールにあったヒロイックな感情は薄れていった。 しかし、コムソモール員の数は急増していく。1941年には団員の数は約1,100万人だったが、1969年には2,400万人にまで増え、1984年には4,200万人でピークに達した。

 2008年にウラル地域で収集された統計によると、1960年代に生まれた人の約80パーセントがコムソモールに入り、1950年代以前に生まれた人は、90パーセント以上にのぼった。しかし、これらの数字がそのまま積極的な参加を意味したわけではない。

 タンボフ出身の歴史学博士アナトリー・スレジンは、次のように指摘する。1957年には、コムソモールには64の新聞と雑誌があり、総印刷部数は1,300万部を超えていた。しかし、コムソモールの職員でさえ、実際にそれらを読んだ人はほとんどいない。また、1959年、ヴォルガ沿岸の自治体、モルドヴィア共和国には、『若き共産主義者』誌の定期購読者が129名、『コムソモールの生活』誌の定期購読者が153名しかいなかったが、同地域には、コムソモールの書記が1,500名、コムソモール職員が150名以上もいた。

バイカル・アムール鉄道(バム鉄道)の建設場へ向かうコムソモール員

 ほとんどの若者にとって、コムソモールはまず第一に、どこかに出かける機会を与えてくれた。「誰もがコムソモールに入っていて、まるでワクチン接種を受けているようだった。誰もが完全に網羅されていた」。ガリーナ・ウリヤノワはこう言う。

 「コムソモールは第一に、社交のためのシステムだった。『木を植える』『街路を掃除する』ための土曜日の外出は、みんな大好きだった。…実のところ、我々は街路樹を植えるために集まったわけではない。集まって、1時間ほどかけて木を植える――そして、ピクニックをし、サンドイッチを頬張り、ワインを飲み、ギターを爪弾き、だべり、いちゃつく…これがすべてだった」

 政府はそれに気づき、イデオロギー的な手法を用いて、若者たちにコムソモールがイデオロギーと関連していることを思い出させようとした。ソ連末期の1984年、ボリス・ワシーリエフの小説『明日は戦争だった』は、コムソモールへの“軽薄な”態度を非難した。

コムソモールの第16回大会を訪れるコムソモール職員、1970年

 「私は、今のところコムソモール員だけど、その後は女になりたいの」。ワシーリエフの物語に出てくる少女は言う。「よくもそんなことが言えるわね!」と別の女子が彼女を非難する。「“女”になるのが夢だなんて!パイロットでも空挺部隊員でも優秀な作業員でもなく、女だなんて。男のおもちゃにすぎないじゃない!」

 しかし当然のことながら、若者たちは、初期のソビエトのイデオロギーに従うよりも、ただ生活し、仲間と付き合い、楽しむことだけを望んでいた。1970年代と1980年代、コムソモール員の資格は、もっぱら簡単な目的のために利用されていた。

 「研究所の職員は、警備員のところに行って、『夜間のダンスパーティーを企画したいので、ホールの鍵をください』と言うわけにはいかないしね」。ウリヤノワは言う。

 「コムソモールの職員なら、『コムソモール員のために“文化的な夕べ”を企画している』と言って、鍵をもらえる。そういう夜には、ふつう、イデオロギー的なレクチャーがまず行われけど、実際には、誰もがただ踊りにそこに来ているだけ。コムソモール員は、劇場に電話して無料のチケットを求めることもできた…。イデオロギーはコムソモール組織の上層部だけにあり、それ以外の人々にとってコムソモールは、ソ連の単なるソーシャルネットワークだった」

コムソモールの第17回大会、1974年

 コムソモール員の数は、1980年代末には3,500万人に減っており、ソ連が崩壊した1991年には2,600万人にまで激減していた。若者たちはもうコムソモール加入には無関心で、それは当時、共産党が深刻な危機に陥っていたことも一因だ。1989年、リトアニアとエストニアの両ソビエト共和国のコムソモール組織が、全連邦レーニン共産主義青年同盟から脱退し、結局、1991年9月に解散した。

 「さて、コムソモールがなくなってみると、日曜日と土曜日の“労働旅行”が、そして政治的レクチャーが、実は労働者たちを結びつけていたことが分かった。こういう集会がなくなると、突然、誰と協力して仕事をしていたのか分からなくなった…」

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