帝政時代以前のロシアではどんな外国語を何のために学んでいたか?

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 どんな時代でも外国語を学ぶ必要はあり、帝政時代、中世、古代のロシア人も例外ではなかった。貿易、さまざまな技芸の習得、科学と国家機構の発展、そしてもちろん外交政策と戦争…。これらすべての領域には、外国語でのコミュニケーションが必然的にともなった。

 古代ロシア(キエフ・ルーシ)にキリスト教を導入したウラジーミル大公は、988年に貴族の子弟を対象として、宮廷に学校を設立した。子供たちは、「技芸」、つまり外国語をはじめとするさまざまな科目を教えられた。そのなかには、ヨーロッパにおける外交の公用語だったラテン語も含まれていた。そしてウラジーミルの息子、ヤロスラフ1世(賢公)は、キエフのソフィア大聖堂に最初の通訳・翻訳学校を設けた。

いかに、そしてどこで外国語を教えたか

 外国の「文語」、つまりギリシャ語、ラテン語その他の、文書で用いられる言語は、ふつうは教会に付属する施設で教えられた。 

 しかし、商人、傭兵、御者、職人は、もちろん教会や修道院で勉強したわけではなく、日々の生活と仕事を通じて学んだ。彼らの先生は、すでにその言語を知っている人だ。修道士、書記、教育のある戦士、経験豊かな商人が「家庭教師」であり、現在と同様に、「生徒」は、「先生」を定期的に訪れて、月謝を払った。

 研究者ロマン・ジャナラが述べているように、「教育の方法に関する情報は非常に乏しい」。しかし、外国で勉強する場合には、「直接的な方法」によった。つまり、生活し交流するなかで、ネイティブスピーカーから直接単語や表現を学んだわけだ。自国では、テキストを翻訳して暗記した。

 しかし当時は、外国語の知識に対する要求水準は低かった。たとえば、通訳する場合、通常は元の発言のスタイルや構成を忠実になぞることはせず、その骨子だけを伝えていた。そしてもちろん、大多数の人々は、口頭の外国語しか知らなかった。つまり、読み書きはできなかったが、自由に意志疎通できた。  

古代・中世のロシア:どんな言語を何のために学んだか

ラテン語

 ラテン語は、18世紀にいたるまで、公式の国際外交の主要な言語だった。ロシアと欧州の国家、公国との条約や貿易協定はラテン語で書かれていた。また、外交官とそのスタッフは、公式の場ではこの言語でコミュニケーションした。

 カトリック教会の礼拝もラテン語で行われた。ロシア正教の聖職者もみな、ラテン語を知っていた。この言語で、欧州の“同僚”と交流していたからだ。

 また、1780年代までは、チェコとドイツの大学では主にラテン語で教育がなされた。欧州で学問を学んだ、ロシアの若者はほぼすべて、ラテン語で話したり書いたりしなければならなかった。つまり、18世紀においても依然として、ラテン語は学術の国際言語であり続けたわけだ。だから、たとえば、「万能の天才」で偉大な啓蒙者だったミハイル・ロモノーソフも、ラテン語の知識を誇りにしていた。

ギリシャ語

 ロシアでは、古代以来、人々はビザンツ帝国(東ローマ帝国)と交流していた。つまり、彼らはギリシャ語で意思疎通しなければならなかった。古代ロシアを訪れた最初期の、正教の聖職者たちは、教会スラヴ語を習得する前は、ギリシャ語で勤行を行っていた。しかし、『聖書』は9世紀に教会スラヴ語に翻訳されていたから、間もなくロシア各地でこの言語により勤行がなされるようになった。とはいえ、ギリシャ語は「グレーク(ギリシャ人)」との交流に使われ続けた(ビザンツ帝国の住民はみな、ロシアではこのように呼ばれていた)。

 商人、修道士、傭兵、外交官、書記などが、ロシアとビザンツを行き来していた。彼らは、古典的なギリシャ語の書き言葉や話し言葉を知らなかったとしても、ギリシャ語の口語「デモティック」により正確に意志疎通できた。10~11世紀には、ビザンツとの交流が非常に活発だったため、古代ロシアの、教育を受けたエリート層は、ギリシャ語を話せるか、通訳を雇っていた。

 その後、ギリシャ語の書き言葉は、聖職者になる者が全員学ぶ最初の外国語となった。後に、ロシアで古典教育が行われるようになると(18世紀後半)、ギリシャ語は文献学者、言語学者、歴史家に必須となった。しかし、例えば、帝政時代の離宮ツァールスコエ・セローの、貴族の子弟を教育した学習院では、ギリシャ語は教えなかった。一般に、ギリシャ語は、ロシア国民の間で広く知られることは決してなかった。

ドイツ語

 ノヴゴロドの指導層や商人は、ドイツ語、スウェーデン語、ポーランド語を話し、これらの言語を母語とする人々と常に交流していた。スウェーデンとドイツの商人が息子たちをノヴゴロドに住まわせて貿易の“知恵”を学ばせたことが知られている。一方、ロシアの若い商人や役人たちも、さまざまなノウハウを身につけるために外国に住んでいたらしい。

 ドイツ語を話していたのは、ドイツ中部の公国出身の技術者たち、つまり兵器製造者、高度な技術をもつ職工、土木や軍事の技術者、そして軍人などだった。彼らは、15~16世紀にロシアの公やツァーリに大量に雇われた。モスクワの新旧の「ドイツ人村」は、後に若きピョートル1世(大帝)がよく訪れることになるが、ヤウザ河岸のドイツ人区であり、路上ではドイツ語が聞こえていた(ただし、英語とオランダ語も同じくらい話されていた)。

 18世紀においても依然、ドイツ語は科学・軍事の分野で普及していた。これらの分野では、ドイツ人が絶えずロシアにやって来て勤務したからだ。そして、彼らの子、孫の世代になると、もうロシア語を話せるようになっていた。

 ロシア人が新たに意欲を燃やしてドイツ語を学び始めたのは19世紀になってからだ。ドイツ語は、カント、フィヒテ、マルクス、ヘーゲルを原文で読みたい知識人層に広まった。また、ロシアの革命家の多くはドイツ語を話した。彼らはドイツやスイスの社会主義者と交流していた。

フランス語 

 ルイ14世(1638~1715年)治下のフランスは、欧州全土で軍事および政治における主なプレイヤーとなっていた。1714年に結ばれたラシュタット条約(スペイン継承戦争の講和条約)は、フランス語で書かれた最初の国際文書となった。18世紀初頭以来、フランス語の知識は外交官にとって必須だった。

 言うまでもなく、フランス人は偉大な文化の担い手として、ロシアを含む欧州全土で貴族の子弟の家庭教師や教育者としての役割を果たした。そしてフランス革命後、ロシアは何千人ものフランス王党派の亡命先となり、彼らの多くはロシアで軍人と文官になった。また、18世紀末にはロシアで婦人・紳士ファッションが急速に発展し始め、フランス人の美容師、スタイリスト、仕立て屋、料理人が多数現れた。

 フランス語はまた、上流社会の言語となった。ロシア貴族はみなフランス語を話し、その知識のレベルが上流社会共通の「名刺」となった。貧しい貴族でも、流暢なフランス語を話せれば、そのおかげで上流階級に受け入れられることがあった。

 フランス語は、使用人や他の下層階級の人々から会話の内容を隠すのにも役立った。私信や回想録もすべてフランス語で書かれた。アルバムに記される愛の言葉や詩もフランス語だった。

 「フランス語かぶれ」に転機が訪れたのは、ようやく1812年の「祖国戦争」(ナポレオンのロシア遠征)の後だ。しかしそれでも、フランス語は、ロシア革命が起こるまで、教育を受けた層の主要言語の一つであり続けた。

英語

 16世紀に英国の商人、銃砲の製造者、職工がロシアに現れ始めた。しかし、英語はあまり広まっていなかった。

 18世紀末、冶金と銃砲製造の専門家チャールズ・ガスコインが、エカチェリーナ2世(大帝)の招きでロシアにやって来た。カレリアの冶金工場を管理するためだったが、彼は自分の仲間内ではもっぱら英語で話し、生涯、ロシア人の部下とは通訳を介して意思疎通した。

 しかし、ロシアと大英帝国がナポレオン戦争で同盟関係になると、状況は一変する。

 18世紀には、英文学を好むロシア人は英語を知っていたが、詩人プーシキンの時代にはもう、この言語の知識が優れた教養人のしるしとなっていた。プーシキン自身も、バイロンを原文で読むために英語を学んだ。祖国戦争の後、英語の本が増え、当然のことながら、英語の家庭教師はフランス語のそれよりもはるかに重宝されるようになった。19世紀前半から、モスクワ、サンクトペテルブルク、カザンの大学で英語が教えられ始め、教育を受けた若い貴族には、英国旅行が必須となった。

チュルク語族の言語 

 モスクワにはかつて翻訳者・通訳者の住む地区があった。トルマチェフスカヤだ(トルマチは、古代ロシア語で口頭の通訳を意味する)。

 この地区には、多くの「タタール人」、つまりチュルク語族の言語を話す商人、職人、その他さまざまな人々が住んでいた。タタール人とトルマチの居住地は、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)との関係が生まれた14世紀からここにあった。