革命前のモスクワっ子たちを惹きつけた郊外のスポットが、もはや都市の一部となって久しい。現在は「コンクリートジャングル」の様相を呈するスモレンスカヤ河岸通りや、またはソコーリニキが、19世紀後半のモスクワっ子たちにとって、郊外での散策と休息のためのお気に入りの場所だったことは、今となっては想像し難いものだ。だが、かつてはまさに人々が都会の忙しなさと喧騒から逃れようと向かう場所だったのである。
彼らは何を避けようと自然を目ざしたのだろうか? それは何よりもまず、暖かい季節の訪れとともにモスクワ市街を覆った埃や砂だ。当時は中心部ですら石で舗装された通りは数えるほどで、あとは田舎道と変わらないものだった。通りを馬車が通るたびに、息苦しいほどもうもうと黄色い砂塵が舞い上がった。そのため、当時はモスクワの外れにあったソコーリニキやペトロフスキー公園といった場所へ、人々は休息を求めて引き寄せられたのだ。
ツァリツィノ、クスコヴォ、雀が丘、クジミンキ、コローメンスコエといった地区は、当時は町外れどころか、まさに郊外の公園や森だった。
革命前のモスクワっ子たちが散策や野外行楽に出かけた最も人気の場所を5つご紹介。
ノヴィンスコエの祭り、1883年
Sputnikノヴィンスコエの祭りは、光明週間(復活大祭後の1週間)に現在のノヴィンスキー・ブリヴァール地区にあたる場所、モスクワ川河岸の広々とした野原(現在のスモレンスカヤ河岸通りの辺り)で行われていた。庶民にとっての祭りの中心は、「鐘」と呼ばれた大きなテントで、その天辺には酒を売る印として青々としたモミの木(ヨールカ)が立てられていた。そこでは「ウォトカの樽が並べられていて、コップや小グラスの代わりに、当時の独特の計量具だったプロシュカ(取手の付いた浅鉢)やクリュチョク(壁などに掛けることのできる柄杓)で売られていた」と、歴史家ピョートル・スィチンは記している。
野原には、一杯飲み屋、巡回興行をしていた動物の見世物小屋、掛け小屋などが並び、甘味も売られていた。スィチンによれば、1841年には「回転木馬が2つ、ブランコが11、自分で運転できる車輪の付いた木馬が2つ、掛け小屋が10」あった。このような娯楽は最も貧しい人々にも提供された。祭りの3日目にはすべて無料となったのだ。
ノヴィンスコエの祭り、1883年
Sputnikノヴィンスコエの祭りの4日目は、上流階級のためのものだった。この日のために特別に設えられた円形の散策場を、昼間は商人たちが、夕方からは貴族たちが箱馬車で巡った。著述家ピョートル・ヴィステンゴフが残した回想録には、この日の様子が次のように綴られている。
「箱馬車の車列がノヴィンスコエ方面へと連なっている。まずは商人たち、その少し後で貴族たちがやってきて、箱馬車での散策は日没まで続く。若者たちは、止まり木の上で羽を休める小鳥たちのように、散策場を囲った柵の手摺に腰掛け、興奮して騒ぎ立て、車列を批評し、ロルネット(柄付きメガネ)を手に美しいモスクワの娘たちを品定めするように眺め、馬車に歩み寄り、連中の中の伊達男が美しい娘に熱を上げると、馬車の扉の取手にもったいぶって肘をかけ、流行のマントの裾を翻しあざやかに肩に掛けると、馬車を見送りながら、ときに大いなる、しかしどこか憎めない文法的間違いを犯しつつ、フランス語でお世辞を振りまくのだった」。
ペトロフスキー旅宮殿、1840年代
Public domainこの公園は、1812年の大火後のモスクワ復興の過程で、スコットランドの庭園建築家アダム・メネラスの設計により建設された。公園建設のため、ペトロフスキー旅宮殿(1782年建造)の周囲にあった別荘は買い上げられ、3本の並木道が敷かれ、ゴシック様式の園亭が築かれた。
貴族階級専用として造られた公園だったため、庶民が近寄らないよう旅籠屋や一杯飲み屋のような施設の建設は19世紀の半ばまで禁じられていた。だが世紀の半ばに実際まず現れたのは、前述の酒を扱う「鐘」ではなく、豪華なレストランだった。公園の傍には名高いレストラン「ヤル」があり(現在は、ホテル「ソヴェツキー」内にある)、そこで、当時の「オリガルヒ」の子供たちが酒宴を開き、豪遊していた。レストラン「モーリタニア」や「エル・ドラード」の建物も現在まで残っている。
公園内の別荘、1896年
Public domainまた、1836年には皇帝ニコライ1世の命により、公園の傍の土地の購入に、10年の返済期限で5千ルーブルを貸付ける法令が出された。ただし貸付には条件があり、それは 「メザニン(建物正面中央部分の装飾で、柱、バルコニー、小ぶりの切妻屋根などで飾る)、アントレソーリ(中二階の通路やホール)、そして鉄製の屋根を備えた上等な建築の二階建邸宅を3年以内に建設すること」というものだった。以来、公園内には豪華な別荘が現れ、たとえばリャブシンスキー家のヴィラ「黒鳥」が現在でも残っている。
ノヴィンスコエのように、公園の中央には箱馬車のための円形散策場があったが、ペトロフスキー公園に集ったのはもちろん、上流階級の人々だった。1860年代に公園を訪れた商人アレクサンドル・ウシャコフ(ペンネームはN.スカブロンスキー)によれば、「公園は(上流階級に)しかるべき立派なところだ。箱馬車、馬、訪れる人々の大多数は非の打ち所もない。フランス語が話され、ファッションの流行は、特に男性は英国式だ。公園には独自の社交クラブが存在し、特に庶民の少ない平日には一際目立つ。彼らが民衆と混ざり合うことはほとんどない。優雅に園内をそぞろ歩くか、豪華な箱馬車で散策するか、流れるように、上品な文句を交わしながら、まだらに列をなして淑やかに進んでゆくか、どうにかしてクラブに属さない人々を迂回し、彼らから離れようとする」。
公園内にはまた、「ヴォクサール」と名付けられた演劇やコンサートを催すための夏の娯楽館が築かれた。「屋根のある大きなテラス、立派な回廊、清潔で美しい部屋、そして、壁には窓が縦に二列並び、二階分の高さはあろうという天井を持つ、広々とした大広間の建築は実に優雅なものだ」と、同時代の作家ミハイル・ザゴスキンがこの建物を描写している。さらに彼は「素晴らしい夕食、踊りたい人のための音楽、愛好家のためのジプシー合唱、軍楽隊の演奏、すべての人のための花火…」と当時のヴォクサールの光景を書きとめている。
ソコーリニキ公園、1879年
Museum of the History of Russian Literature「都市の職人、そして商人の大多数はペトロフスキー公園が好きではない」とミハイル・ザゴスキンは書いている。彼らを含めて庶民は、5月1日から始まるソコーリニキでの祭りを好んだ。まだピョートル大帝の時代から、モスクワに住むドイツ人は、彼らのメイポールの祭り(5月柱、春の訪れを祝う)を祝うための場所として、ソコーリニキの林を選んだ。そして、ソコーリキにある、かつて皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチの愛鷹シリャイが地に落ちたという伝説が残る広野「シリャエヴォ・ポレ」は、次第にノヴィンスコエと同様、大規模な祭りが行われる場所となった。
シリャエヴォ・ポレにはテントが置かれ、そこへ県知事が訪れると、軍楽隊の演奏を聞きながら上流階級の客にご馳走を振る舞った。来賓たちはその後それぞれ箱馬車に乗り、野原を巡り、民衆はそれを目いっぱい楽しんだ。歴史家のヴェラ・ボコワが紹介している祭りのある一日のプログラムは次のようなものだ。
「1. 軽業師イゴールカ・シェラプトによる、熱湯滾るサマワールを頭に載せ、バランスを取る棒なしでの綱渡り
2. フェージャ・ウダロイによるロシア民族舞踏
3. グリゴリー・コルチャン、パヴロフスキー・ポサド出身のバス歌手
4. 剣飲みの奇術師アリゴッティ、燃える麻くずを食べ、ヤニを飲む
5. オンドゥリュシュカとミトゥロドラによる農村歌と踊り➖ チャクルィギンによるタリヤンカ(ロシア式アコーディオンの一種)での伴奏
6. ラザレフが歌う「おいしいオレンジにレモン」➖ マルティノフによる高音のコーラス
7. フェオクチストフによるバラライカの演奏
8. 18人編成の合唱団『ロシアの果てなき野』 による歌と踊り」
庶民たちの間では、ソコーリニキで直接地面に座ってお茶を楽しむ伝統があった。ヴェラ・ボコワによれば、周辺住民の女性たち ーー「サモワール婦」と呼ばれ、ふつう、軍人や小市民の未亡人たちだった ーー がお湯の湧いたサモワールを人々に勧め、濃く出した紅茶、砂糖、お皿が一緒に付けられた。
「ロシア人は元来、人工的なものを好まない。線で囲ったように空間的に制限された庭園は、彼らにとって窮屈で狭いのだ。彼らが最も嫌がるのは緑の茂みの向こうにめぐらされた塀だ。彼らは反対に、森、林、野原を好む」と、アレクサンドル・ウシャコフが指摘している。また彼は「郊外に散策に出かける人たちは、朝から食べ物や飲み物などを準備し、その量は1週間分はあろうかというほどだ」とも記している。また別のモスクワっ子、オペラのテノール歌手パーヴェル・ボガティリョフは「祭りは、もうもうと立ちのぼる埃と、ほろ酔い気分の民衆の喧騒の只中で行われ、人々はワインと雑踏と叫び声から茫然自失の体で家路につく」と描写している。
マリイナ・ロシャでの聖神降臨祭、1852年
Public domainマリイナ・ロシャは、一説によれば、恐るべき盗賊の頭目「マリヤ」から名を取った場所で、ほぼすべて白樺からなる林だ。この場所での祭りはもともと、古くからの伝統である「セミク祭」と結びついたものだった。セミク祭は、復活大祭後第7週目の木曜日で、同時に「親族記憶の土曜日」の3日前に当たる日に、死者の霊を祭り、春を迎える民衆の祝日だ。
この祝日は正教の、というよりはむしろキリスト教以前のもので、祭りの中心の場所は白樺の木が占めていた。その白樺を巻き合わせて、半円形のアーチのような、言わば「樹輪」が作られた。モスクワ郷土史家のタチヤナ・ビリュコワ曰く、「まず白樺の木を揺すって撓め、上の方の枝を掴むと、それを側の木の枝に結びつけた。こうして「樹輪」が出来上がる。そうしたら女たちは二人一組になってこの「輪」の下を3回くぐり抜け、軽く口づけ交わし、お互いの友情を誓い、十字架を交換した。この「樹輪」はまる1週間そのままに置かれる。その間この白樺には誰も近寄らず、避けるように脇の方を小走りさえする。なぜなら、この「樹輪」の上にはルサールカが座っている、と考えられていたからだ」。ここで言う「ルサールカ」とは、聖神降臨祭(五旬祭)の週に「地上を彷徨う」死者の魂のことであり、盛大な追悼の酒宴を設け、送る必要があった。これはキリスト教以前のロシア人の間に見られた信仰で、非常に根強いものだった。
マリイナ・ロシャでのシミク祭、1852年
Public domainそのため、6月初めの聖神降臨祭の週には、モスクワっ子たちは先祖の墓参りをし、皆で出かけてお祝いをしたのだ。マリイナ・ロシャの近くにはちょうど大規模なラザレフ墓地があり(現在はフェスチヴァーリヌイ公園となっている)、そこには自殺者や無縁仏も埋葬されていた。この古くからの伝統は主に庶民の間に残っていたものだったので、マリイナ・ロシャの祭りはもっぱら彼らのものだった。貴族たちはここへ来て、威勢のよい農民たちが大勢で輪舞をする様子を見るだけだった。
「マリイナ・ロシャでは、すべてが生気に満ち溢れ、すべてが死を彷彿とさせる。こちらでは、古い墓の間を陽気で気ままなジプシーの歌が響き渡り、あちらでは、墓石の上にサモワールやラム酒の瓶が置かれ、ロシア人の商人が宴会をやっている」こう書き残しているのはミハイル・ザゴスキンだ。「ラザレフ墓地に並ぶ十字架が後ろに見えるその土手に、威勢のよい輪舞歌が鳴り響く。覚めることのない眠りについた死者に囲まれて、生ある民衆は、さも屈託なくこの浮世苦界を眺めつつ、遊び、楽しみ、無茶をする。死など微塵も考えず」。
シモノフ修道院、1846年
Public domainシモノフ修道院、最も歴史のある僧院のひとつであり、ラドネジの聖セルギイの甥である聖フェオドルによって創建されたこの修道院は、モスクワっ子たちにとって代表的な聖地のひとつだった。ここには、「クリコヴォの戦い」に従軍した修道士ペレスヴェトとオスリャビャの聖骸が埋葬されている。1930年代に修道院の建物の大部分は爆破解体された。跡地には工場が建設され、一部は「ジル(リハチョフ記念自動車工場)」記念文化会館の敷地となり、現在特にここを散策する人はいない。しかし、19世紀にはスタロエ・シモノヴォの野原は、農民から上流階級まで、モスクワっ子たちのお気に入りの散策路のひとつだった。それはなぜなのか?
シモノフ修道院、20世紀初頭
Sputnik人々はここに、現在のクルチツカヤ河岸通りの高台からモスクワの町を眺めるためにやってきた。ここは雀が丘のように有名な「展望台」だったのだ。ただ、雀が丘よりよほど中心部に近かった。それに加えて90メートルの鐘楼に上ることができた。これはクレムリンにあるイワン大帝の鐘楼よりも高いものだった!
シモノフ修道院の鐘楼から眺めるモスクワのパノラマ、1913年
Public domainミハイル・ザゴスキンによれば、シモノフ修道院の鐘楼から眺めるモスクワのパノラマは次のようなものだった。「鐘楼の展望台に上ると、修道院周辺の多様さと美しさは、いくら見ても見飽きることがなかった。シモノフ丘の裾野から川の流れに沿うように、小ぶりの池が点在する広大な緑の野原が広がる。野原の真ん中には砂岸のモスクワ川が蛇行している。モスクワ川の向こうには、ダニロフ修道院に至るまで、庭園と巨大な工場群が並ぶセルプホフ区が続く。右を見れば、ヤウザ川を挟んで対岸の全域が、石造りの邸宅と華麗な教会とともに、円形劇場の観客席の如く浮かび上がっている。後ろを振り向けば、眼前に広がるのは、高い丘や散在する家々に代わって、広大な野原、黒い松の森、種が蒔かれた畑、絵画のようなまばらな木立、林、いくつかの集落、ペレルヴィンスキー修道院、そして彼方の地平線にはかの有名なコローメンスコエ村…」。
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