史上最大の戦車戦「クルスクの戦い」:ドイツ軍からいかに独ソ戦勝利の可能性を奪ったか

Ivan Shagin/Sputnik
 「クルスクの戦い」までは、ドイツ軍は、赤軍が攻勢に出られるのは冬季だけだと確信していた。

 1943 年 7 月 5 日、第二次世界大戦の歴史の中で最も重要な戦いの 1 つが、クルスク市の近くで始まった。ここで、ドイツが、熾烈な独ソ戦(大祖国戦争)において、スターリングラードでの惨敗後に失った戦略的主導権を取り戻せるか否かが定まった。

 ヴォルガ河畔のこの都市で、ドイツ軍のフリードリヒ・パウルス率いる第6軍が包囲され降伏。これに続き、ドン川沿いでも、ドイツ軍とその同盟国、ルーマニア、ハンガリー、イタリアの部隊が敗北し、ドイツ側の戦線は文字通り崩壊した。赤軍(ソビエト連邦軍の前身)の圧迫が強まり、ドイツ軍は数百キロメートル西方へ後退した。

クルスクの戦いの前の赤軍兵士

 ようやく1943年春になって、ドイツ軍は戦線を安定させ、いったん放棄したハリコフ市とベルゴロド市を奪還できた。一連の戦闘の結果、赤軍側に巨大な突出部が生まれ、ドイツ軍側に深く食い込んだ。間もなくそれは「クルスクの突出部」として全世界に知られるようになるだろう。

 ここに集中された赤軍は、ドイツの中央軍集団と南方軍集団の側面と後方を脅かした。一方、ドイツ軍にとっても、事態が有利に展開した場合には、赤軍の側面を集中的に攻撃して、赤軍の突出部を「切り離し」、赤軍の大部隊を罠にはめる可能性もあった。

ドイツ軍戦車「マルダーIII」

 これがまさに、ドイツ陸軍総司令部が作成した攻撃計画「ツィタデレ(城塞)作戦」の内容だった。1943 年 4 月 15 日の命令では、次のように述べられている。

 「この攻撃は極めて重要である。迅速かつ決定的な成功で終えなければならない。最良の軍集団、最良の兵器、最良の指揮官、そして大量の弾薬が、主要な攻撃に向けられなければならない。クルスク近郊での勝利は、全世界への合図とならなければならない」 

 ドイツ軍の攻撃の総兵力は、90万人以上、約1万の大砲と迫撃砲、2700両近い戦車と自走砲、約2千機の航空機からなっていた。独ソ戦に参加した、戦車の約70パーセント、機甲師団の30パーセント近く、歩兵師団の20パーセント以上、軍用機の65パーセント以上に当たった。

クルスクの戦いのドイツの地図

 赤軍も手をこまねいてはいなかった。「クルスクの突出部」での大規模な戦闘を前に、赤軍は、130万人の兵力(さらに60万人が予備として控えた)、26万5千以上の大砲と迫撃砲、4900両以上の戦車と自走砲、約2900機の航空機を集中させた。

 あらゆる点で敵に対して物量で優位に立ったにもかかわらず、赤軍司令部は、まずは守りを固めることを決めた。4月8日のスターリンへの報告の中で、ゲオルギー・ジューコフ元帥は次のように述べている。

 「敵の機先を制するために、赤軍が攻撃に出ることは、ここしばらくは不適切だと考えます。赤軍の防御により敵を疲弊させ、敵の戦車を撃破し、その後で、新たな予備兵力を導入して総攻撃に転じ、敵の主力を殲滅させるほうが良いでしょう」 

 赤軍は、「クルスクの突出部」に強力な防衛体制を築いた。その中には、8つの防衛陣地帯と、計250~300キロメートルに及ぶ、湾曲した防衛線が含まれていた。赤軍は、敵の攻撃の撃退に向けて、大量の大砲を備えていた。たとえば、第13軍の置かれた地区には、前線1キロメートルあたり90門超の大砲と迫撃砲があった。これまでの防衛作戦では、これほどの高密度で大砲が配備されたことはなかった。

 ドイツ軍の攻撃の成功は、いかに敵の意表を突いて先制攻撃できるかによるところが大きかった。しかし、ソ連の諜報機関は、「ツィタデレ(城塞)作戦」の始まる日時を突き止めた。そして、作戦開始直前の7月5日早朝に、赤軍の砲兵隊が敵陣地へ大規模な先制攻撃を行った。

 「ナチスの部隊は不意を突かれた」と、当時の中央方面軍司令官、コンスタンチン・ロコソフスキー元帥は振り返っている。「敵は、ソ連側の方が攻勢に出たと判断した。これは、当然ながら、敵の計画を混乱させ、ドイツ軍部隊をかき乱した。敵が隊列を整えるのに約2時間かかった」

 この後、ドイツ軍の2つの部隊が「クルスクの突出部」の北部と南部の戦線から、大規模な攻撃を始めた(*ドイツ中央軍集団が「北部戦線」を担当し、南部軍集団が「南部戦線」を担当)。彼らはソ連の防御を突破してクルスク付近で合流し、それによって赤軍を巨大な「袋のネズミ」とすることを目論んでいた。

ドイツ軍戦車「ティーガーI」

 「言わば『鋼鉄の雪崩』に襲われた我が軍は、敵を倒すためのあらゆる手段を駆使して、犠牲をものともせずに戦った」と、ロコソフスキー元帥は記している。

 「45 ミリメートル砲も、戦車に対して使われたが、それは『ティーガーI重戦車』の装甲を貫通できなかった。そこで、至近距離からキャタピラーに向けて撃った。凄まじい砲火の中、工兵と歩兵は、停止した敵車両に近づき、車両の下に地雷を敷設したり、手榴弾や火炎瓶を投げつけたりした。その間に、狙撃部隊は、戦車に付いてくる歩兵を射撃で遮断し、反撃して殲滅した」

 「北部戦線」で赤軍の激しい抵抗に遭い、ドイツ軍はわずか6~8キロメートルしか前進できなかった。7月12日までに、敵はここでの攻撃力を使い果たし、守勢に転じざるを得なくなった。

 一方、「クルスクの突出部」の「南部戦線」で活動していたドイツの攻撃部隊においては、事態はこれよりは多少ましだった。

 「敵の最初の防御陣地は、比較的容易に突破され、いくつかの集落が占領された」。精鋭の装甲擲弾兵師団「グロースドイッチュラント師団(大ドイツ師団)」の兵士クルト・ゲッチマンは、こう回想する。「早くも2日目から、ロシア軍の抵抗は激しくなった。とくにソ連の対戦車砲は非常に厄介だった」 

 甚大な損失を被ったドイツ軍は、赤軍の防御を突破して作戦領域に入ることができなかった。その後、ドイツ軍は、オボヤニ市を経由してクルスクに向かう代わりに、プロホロフカ村を通って迂回しようとした。この方面に、ドイツの第2SS装甲軍団も、プロホロフカ奪取のために向けられた。これに対し、赤軍の第5親衛軍と第5親衛戦車軍が投入される。当初、赤軍司令部は、戦いの防御段階では、これらの部隊を戦闘に投入する予定ではなかった。

 こうして、7月12日、プロホロフカ付近で、大規模な戦車戦が繰り広げられ、両軍それぞれ1千両以上の装甲車両が参加した。

 「筆舌に尽くし難かった。周囲のすべてが燃えていた――兵器も車両も、大地も人間も…」。戦いを目の当たりにしたパイロット、ヤコフ・シェインクマンは回想する。

 「どこもかしこも燃えている。我々は、『ポリカールポフ Po-2』(*ソ連製の単発複葉の練習機)で、戦闘を指揮する戦車旅団の指揮所の近くに着陸した。戦場のすぐそばだ。そして、隙を見て指揮所に走り、極秘の包みを手渡し、再び、『火の海』の上空に舞い上がった。飛行のたびに整備士たちは機体の数十の穴を塞いだ。プロホロフカは、私が戦争で目にした最も恐るべきものだった」 

 その日、12日の夕刻に、計400 両ほどの戦車が戦場で燃え続けていたが、両軍いずれも優位に立つことはできなかった。

 しかし、この時までに「ツィタデレ(城塞)作戦」の失敗は明らかになっていた。早くも7月12日には、赤軍の西部とブリャンスクの戦線の部隊が、7月15日には中央部の戦線の部隊が反撃に転じた。

 その後の攻勢で、赤軍は西に150キロメートル前進した。8月5日、赤軍はオリョール市とベルゴロド市を解放し、これを祝してモスクワで初めて礼砲が撃たれた。8月23日、赤軍はハリコフに入城。この出来事により、一連の戦いにおける大規模な戦闘は終わった。

プロホロフカ付近のドイツ軍兵士

 1か月半の戦いで、赤軍の損失は80万人以上に達し、そのうち25万5千人が死亡・行方不明となった。ドイツ軍の損失は40~50万人にのぼった。

 ハインツ・グデーリアン上級大将は、クルスクの戦いについて次のように述べている。「あんなに苦労して補充した装甲部隊は、人員と装備の多大な損失により、長期間活動不能となってしまった。東部戦線で防衛し、西部でも防衛の組織が必要だが(連合軍は来春にも上陸すると脅していた)、それに向けての適時な回復は疑問視された。当然のことながら、ロシアは自分たちの成功を直ちに活用した。こうして、東部戦線にはもはや平穏な日々はなくなった」

 疲弊した敵は、大規模な攻撃作戦は放棄せざるを得なくなり、独ソ戦の戦線全体にわたって守勢に回った。その一方で、赤軍は、戦略的主導権をしっかり握り、第二次世界大戦が終わるまでもはやそれを手放さなかった。

ドイツ軍戦車「ティーガーI」のそばの赤軍兵士

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