ロシア帝国には 1816 年まで公式の国歌がなかった。その代わりに、次の3曲のうち 1 つが公式行事で演奏された。 3つの「国歌」
しかし、3つの異なる賛歌という状況はどうもすっきりしない。皇帝アレクサンドル1世の下で、新しい統一国歌を制定することが決められた。
アレクサンドル1世
Peterhof Palaceナポレオン戦争後の1816年末、アレクサンドル1世は、「ロシア国民の祈り」をロシア帝国最初の公式国歌とする勅令を発布した。国歌の歌詞は、詩人ワシリー・ジュコフスキーの同名の詩からとられた。しかし、曲はイギリス国歌をコピーしたものだった。
アレクサンドル1世は、治世初期の側近たちと同様にイギリス贔屓だった。ロシアと英国の友好関係は、ロシアがナポレオンに勝利するといよいよ強まり、帝都サンクトペテルブルクでは「アングロマニア」が文字通り公式レベルに引き上げられた。
たとえば、1812 年の「祖国戦争」(ナポレオンのロシア遠征)における英雄たちの肖像画のギャラリーは、英国の肖像画家ジョージ・ドウの指導の下で制作された。そして、新国歌は、英国の『God Save the King』(ゴッド・セイヴ・ザ・キング)(起源は明らかでないが、1740年に詩人・作曲家のヘンリー・ケアリーがつくったという説がある)の音楽を借用し、賛歌の冒頭も意味が同じだった。 「神よツァーリを護り給え!」
作曲家のヘンリー・ケアリー
Gallica Digital Library賛歌「ロシア国民の祈り」は、皇帝のすべての接見や公式行事などで演奏された。この歌は、1833 年までロシア国歌だったが、時の皇帝ニコライ 1 世の命令で作曲家アレクセイ・リヴォフが新しい曲を書き、ワシリー・ジュコフスキーが古い歌詞を少し変えて、国歌「神よツァーリを護り給え!」が生まれた。これは、1917年のロシア革命まで用いられた。
作曲家アレクセイ・リヴォフ
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