ライバルの存在が耐えられなかったスターリンには、トロツキーを個人的に嫌悪するだけの理由があった。ボリシェヴィキの指導者ヴラジーミル・レーニンに、トロツキーは最も近い存在であった。その権威と影響力は絶大で、10月革命後は新政府のトップになっても不思議ではなかったが、辞退してレーニンに譲った。党内でスターリンとトロツキーの間には意見の相違が多くあったが、対立が憎悪にまで発展した契機は「ツァリツィンの衝突」であった。(*ツァリツィン市の防衛をめぐるスターリンとトロツキーの対立のことである。ツァリツィンはヴォルゴグラード市の当時の地名。)
トロツキーが創設者となった赤軍は内戦時、経験豊富な兵や指揮官を多く必要としていた。そのためトロツキーは、元ロシア帝国軍からも将校を募ることを提唱していた。これにスターリンは断固反対。スターリンが担当していた方面では戦線は危機的状況にあったが、彼はイデオロギー的に忠実な指揮官を推していた。そうした新顔の指揮官には、後年、ソ連邦元帥となるブジョンヌイやヴォロシーロフらがいた。
兵士の前で演説するトロツキー
Public domainトロツキーは革命軍事会議議長であったが、スターリンはその指示に従わず、自らに軍事指揮権を求める手紙をレーニンに書いている。「トロツキーが考え無しに指揮の委任を乱発すれば…ひと月もせずに北コーカサス戦線が崩壊することは目に見えている…彼に叩きこんで欲しい…事を成すために、私には軍事指揮権が必要である…トロツキーからの命令書の有無に関わらず、私を止めることはできない」。
一方のトロツキーは、スターリンの解任を強く要求していた。結局、レーニンはトロツキーの肩を持った。スターリンは前線からモスクワに呼び戻されたが、やがて革命軍事委員に任命された。しかし議長は依然としてトロツキーが務めていたため、対立は継続した。
レーニンとスターリン
Public domainレーニンが病気により政治活動から遠のくと、2人の革命指導者の対立は顕在化した。党大会に宛てた1922年の書簡、いわゆる「レーニンの遺言」においてレーニンは、スターリンとトロツキーの対立が党の分裂に発展することを危惧している。
「スターリンは粗暴に過ぎる。この欠点は、我ら共産主義者の仲間内では十分に我慢できるものだが、書記長職にあっては容認できないものとなる。よって私は同志諸君に、スターリンを同職から外し、同職にはあらゆる面でスターリンとは異なる人物を据える手法を考えるよう提案する。すなわち、より忍耐があり、より丁重で、同志に対しより思いやりがあり、より気まぐれではない、といった人物である」。
レーニンはスターリンを批判するのみならず、トロツキーを「中央委員会で最も能力ある人物」として篤い信頼を表明した。しかし、スターリンは書記長職に留まった。彼が党内役職の多くを配分していたため、1922年当時にはスターリンは大きな権威と支持を有するようになっていた。
スターリンは忠実なグループで周囲を固め、トロツキーを党内から排除していく。トロツキーの権威と影響力は非常に大きかったため、スターリンは早くもライバルの抹殺を考えるようになった。しかし、非常手段には訴えず、トロツキーは解任された上に党を除籍され、1929年に国外に追放された。
トロツキーを大衆の残忍な殺人者として描いた風刺画
Public domain公平を期すために追記しておくと、スターリンがトロツキーと対立したのは、競合相手を恐れたからだけではない。スターリンはトロツキズムの勝利に伴う弊害をかなり冷静に認識していた。トロツキーの推進した政治路線は、新生ソ連という国家に深刻な被害をもたらす可能性があった。スターリンは強硬な政治家として知られるが、実際にはトロツキーの方がはるかに強硬かつ過激であった。トロツキーは国内における大規模なテロルと独裁、そして全世界への「革命の火災」拡大を推進していた。スターリンの集団化政策は強制的であったが、トロツキーの農村政策がもし実現されれば、それは紛うかたなき悪夢となったであろう。逆説的だが、トロツキーと比較した場合のスターリンは、はるかに現実的でバランスの取れた政治家に見えてくるのだ。
亡命先でもトロツキーは政治活動を継続した。彼の提案を基に国際的な共産主義運動である第4インターナショナルが結成された。トロツキーはソ連国外にあってスターリンの支配が及ばないことにより、かえって亡命前より危険な存在になった。亡命先で書かれた著作や論文でスターリンを「ヒトラーの経理」と呼び、個人崇拝と全体主義、そして特に官僚主義を批判した。
トロツキー暗殺の口実となったのは、ソ連とナチスドイツとの比較であった。トロツキー暗殺の主要な立案者だったスドプラートフは後年、スターリンがトロツキー暗殺の必要性について、次のように語ったと回想している。「トロツキーは1年以内、不可避である開戦前に排除されなければならない。スペインでの経験からして、トロツキーを排除しなければ、帝国主義者によるソ連侵略に際し、国際共産主義運動からの援助に確信を持てなくなる」。
パヴェル・スドプラートフ
Arturprada (CC BY-SA 4.0)最初の暗殺計画はオペレーション「馬」と名付けられた。戦闘部隊がトロツキーの家を銃撃したが、数十発の発砲にも関わらず、トロツキーとその妻ナタリヤ、孫のセワは無傷だった。
そこでプラン「母」が採用された。スペインの共産主義者ラモン・メルカデルはトロツキーに接近して殺害する計画だった。彼はトロツキーの秘書の1人と懇意になり、カナダの偽造パスポートを取得してフランク・ジャクソンを名乗った。仕事の後で秘書のもとに立ち寄りながら、彼は次第にトロツキー家に接近した。メルカデルは客として招待されるようになり、トロツキーの思想に興味を示す風を装い、また孫にプレゼントもした。
1940年8月20日、メルカデルは第4インターナショナルを支持する論文を持ち込んで、トロツキーに評価を頼むという口実で、家に上がった。暑い日にも関わらずメルカデルはコートを着ていたが、怪しまれる事は無かった。彼はすでに「身内」と認識されていたのである。コートの下にはピッケルとリボルバーと短剣が仕込まれていた。
「私が口実として持ち込んだ論文をトロツキーが読み始めた時、私はコートからピッケルを取り出し、握りしめると、目をつぶって頭部に強力な一撃を浴びせた」と、逮捕後にメルカデルは供述している。
メキシコの警察官はラモン・メルカデルが使っていたピッケルを手にする。
AP医師による手当も空しく、トロツキーは1940年8月21日に死去した。秘書は、彼の最後の言葉を書き留めている。「友人たちに伝えて下さい、私は第4インターナショナルの勝利を確信しています…前進してください」と。
ラモン・メルカデルは19年と8か月を獄中で過ごし、釈放後にソ連に渡ると、ソ連邦英雄の称号を与えられた。
ラモン・メルカデル、1940年8月31日
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