ロマノフ家最後の飼い犬:一家の処刑後も生き永らえたジョイ

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 皇帝一家の処刑後に生き残った唯一の家族が、この犬である。ジョイは世界的に有名なスポーツ選手の飼い犬として生涯を終えた。

 ロマノフ一家がエカテリンブルクのイパチェフ館にやってきた時、一家とともに3匹の犬もいた。いずれも黒犬である。フレンチブルドッグのオルティポは、タチヤナ皇女の飼い犬。キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルのジェミーはアナスタシア皇女の飼い犬。そしてコッカー・スパニエルのジョイはアレクセイ皇太子の飼い犬であった。

 「私は…受刑者たちに向かってナガンを撃ち尽くした。自分の射撃の結果は知らない。すぐに機関銃が設置してある屋根裏に行かねばならなかった。(中略)屋根裏に駆け込むと、通りを隔てた鉱山大学に照明が灯ったのが見えた。銃声がハッキリと聞こえ、皇家の犬たちが激しく吠えた」。カバノフが屋根裏から戻ってくると、もうすでに全員死んでいたが、「”ジャック”という犬は吠えなかったので、手をかけなかった」

 皇帝一家処刑の参加者のひとり、チェキストのアレクセイ・カバノフ。皇帝一家処刑に関するA.G.カバノフのインタビューの書きおこし、1965年、ハバロフスク。

ジョイはどうして生き残ったのか?

 誰が、いつ皇太子にジョイを贈ったかは不明だ。英語で「喜び」を意味するジョイという名は、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナがつけた。かつて皇后を可愛がったその祖母ヴィクトリア女王も、たいへんな犬好きで知られた。

 犬は3匹とも、ツァールスコエ・セローからトボリスクを経てエカテリンブルクまで、皇帝一家とともにあった。ジェミーは一家もろとも、地下室で殺害された。オルティポは家に残っていたが、激しく吠えたために殺された。ジョイだけが死を免れた。

 「玄関から皇帝一家が住む部屋に続くドアは閉められたままだったが、室内からは全く音がせず、そこに誰もいないことは明白であった。皇帝一家が住んでいた頃は、声や足音など、生活音が常にしていた。しかし今は誰もいない。玄関の、皇帝一家が暮らしていた部屋に続くドアのわきに、彼らの犬がいて、室内に入れてもらえるのを待っていた。あの時、待ってても無駄だぞ、と思ったことをよく憶えている」。

 イパチェフ館の警備兵、アナトリー・ヤキーモフ。1919年の尋問記録より。

 犬は、警備兵のミハイル・レチョーミンが連れ去った。白軍がエカテリンブルクを占領すると、捜査にあたってジョイは略奪の有力な証拠となった。レチョーミンはさらに79点もの物品を押収されている。

 「チェコ兵(ロシア軍所属のチェコスロバキア軍団)はエカテリンブルクを占領すると、イパチェフ館の庭を走り回る、腹を空かせた哀れな小さい犬を発見した。犬は自分の主人をずっと探し回っているようだった。主人の不在がよほど悲しいのか、やさしく撫でられている時でさえ、なかなかエサを食べなかった。

 私はジョイを見に行った。ジョイは犬らしいナイーブさで、私とともに御主人たちも現れると期待したのか、にわかに活気づいた。あれほど興奮した犬を見た事がない。

 私が呼ぶとジョイはたちまち貨車を飛び降り、プラットフォームを走って私のもとへ駆け寄り、私の周囲を飛び跳ねた。前足で私にしがみつきこそしなかったが、サーカスの犬のように、後ろ足で立ってステップを踏んだ。ディテリフス将軍は、この犬がこれほどの歓迎ぶりを示したことは一度も無かったと言った。私はとりたててジョイを構ったことは無かったが、その時着ていたのがトボリスクに居たころの服で、懐かしい匂いがまだ残っていたことが原因ではないかと、私は思った。

 私が去ると、ジョイは私が去ったドアの横に一日中いた。ジョイはまた食事を受け付けなくなり、いつも通りの落ち込みように戻ってしまった」。

 皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの女官、ソフィヤ・カルロヴナ・ブックスヘーヴェデン男爵夫人。『ロシア皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの生涯と悲劇。女官の回想録』より。

 ジョイが英国王の所有地に葬られたというのは、間違い

 皇太子の飼い犬は、白軍主導のもとで皇帝一家殺害を捜査したミハイル・ディテリフス将軍が引き取った。その後、ジョイはパヴェル・ロジャンコ大佐のもとに引き取られた。彼はアルフレッド・ノックス将軍のイギリス軍事使節団に随行したロシア人で、スポーツ選手として、また乗馬の教師としても著名だった人物である。10月革命後、ロジャンコはイギリス軍に入り、英国に亡命した。

 イギリスに移ったロジャンコは貴族向けの乗馬学校を開校した。後の英国王エドワード8世も、彼の生徒である。後年、パヴェル・ロジャンコの甥であるアメリカ正教会のヴァシリー主教(ロジャンコ、1915~1999)は、ジョイはジョージ5世の所有物となったと話した。ロジャンコはニコライ2世にとって従兄弟にあたるジョージ5世に、ニコライ一家の死について語っていた。ジョイは英国王のもとで暮らし、ウィンザーにある王室の犬たちの墓地に葬られたというが、これは俗説に過ぎない。

 ロジャンコは自叙伝『Tattered Banners(ずたずたの旗)』(ロンドン、1938年)で、ジョージ5世との面会を回想している:

 「私は空っぽになったイパチェフ館の冷たい部屋と、血だらけの地下室の話をした。私が墓地を捜索したが徒労に終わったこと、灰の一つまみでも得ようと、シベリアの森を横断した陰鬱な旅のことを話した。(中略)私の庭を駆けるジョイの話をした。ジョイは一見すると十分に幸福そうだ。だがその薄茶色の目を見ると、彼は何を記憶しているのだろうかと、私はしばしば考えるのである」。

 ジョイはウィンザーで死んだが、場所は王室ではなく、ロジャンコ大佐の小さな領地であるSefton Lawnだった。その庭園は、王室の庭園と接していた。

 「ウィンザーにある私の庭園を横切るたびに、繁みに囲まれた小柄なあの犬の墓を思う。墓標には、『喜び、ここに眠る』と皮肉っぽく書かれている。私にとってあの墓石は、帝国と生活様式の終焉を象徴している」。

 パヴェル・ロジャンコ大佐、『Tattered Banners』(ロンドン、1938年)より。

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