ソ連はいかに来る世界大戦に備えていたか:対独戦は不可避と認識して

歴史
ボリス・エゴロフ
 ソ連は、ナチス・ドイツとの軍事衝突は避けられないと確信していた。しかし、ソ連の指導部は、全力を尽くして開戦を 1942 年まで延ばそうとした。

 ソ連は、建国直後から新たな世界大戦への準備を開始した。この戦争は不可避だと、国の指導部は考えていたからだ。西側の資本主義諸国との大規模な対立が、残酷で膨大な犠牲をともなう妥協のない大戦争になるのは必至だった。

 ソ連の軍事ドクトリンによれば、赤軍は、敵の最初の一撃に耐え、国境の戦いで敵を打ち負かし、大攻勢に転じて決定的な勝利を収め、それによって、多民族国家の「偉大な家族の平和な仕事」を保証するはずだった。

 「ソビエト社会主義共和国連邦は、敵のいかなる攻撃に対しても、我が軍の全力をもって壊滅的な打撃を与えるだろう…」。1939 年の「労農赤軍の野戦操典」にはこのように記されていた

 「敵が我々に戦争をしかけた場合、労農赤軍は、かつて攻撃したあらゆる軍隊の中で最も攻撃的なものとなるだろう。まさに攻撃的に戦争を行い、敵の領土に戦いを移す。赤軍の戦いは、敵の完全な打倒を目的とし、敵を壊滅させるだろう」

幹部将校が足りない

 革命後に国土を荒廃させた内戦と外国勢力の介入を振り返って見れば、軍隊の近代化は非常に重要だったが、それは困難を極めた。大規模な軍改革と再軍備に着手できるようになったのは、多くの点で、1929年にソ連で始まった工業化のおかげだ。

 赤軍は長期間、各地域での民兵徴募の原則によって編成されたが、これはまさに経済難のためだった。兵役に就くものは、居住地の近くで短期間の戦闘訓練を受けた。その一方で、正規の軍人(主に指揮官)の数は最小限にとどまった。

 1930年代後半になると、軍は、正規の軍人を養成する制度に移された。それは、1939年の一般兵役に関する法律において、最終的に確立される。

 第二次世界大戦の前夜には 190 万人に達していた赤軍の兵数は、ドイツ軍のソ連侵攻が始まる頃には 500 万人にまで増えていた。新たな部隊を編成しその相互の連携を形作る作業が活発化していた。師団の数だけでも98から303に増加している。しかし、このような急速な拡大は、組織・運営の問題、指揮官の不足、およびその質の低下につながることは避けられなかった。

 19371938 年のいわゆる「大粛清」は、数万人に大なり小なりの影響を与え、赤軍の指揮官にとっても非常な打撃となった。1939 年春にソ連最初の元帥が 5 人いたが、大粛清後に生き残ったのは 2 人だけだ。

 「粛清」の結果は、19391940 年の「冬戦争」、つまりフィンランドとの戦いでソ連軍が大いに苦戦したことにはっきりと現れた。戦後、軍指導部に大きな変化が起こり、粛清、弾圧されていた多くの指揮官が強制収容所から軍に復帰した。そのなかには、将来の元帥コンスタンチン・ロコソフスキーも含まれていた。

「我らが装甲は堅固で、戦車は快速である」

 独ソ戦(大祖国戦争)の前夜、赤軍の武装は急速に進んだ。1939~1941 年に、赤軍の戦車の数は 1万から2万5千両に(訓練用を含む)、戦闘機は 5千から1万4千機に、大砲は3万4千から 9万1千門に増えた。

 軍に配備された最新兵器のなかには次のものがあった。トカレフM1940半自動小銃、PPSh-41 (短機関銃)、ZiS-3 76mm野砲、D-30 122mm榴弾砲、52-K 85mm高射砲、中戦車 Т-34、重戦車 KV-2、戦闘機のYak-1と MiG-3、攻撃機Il-2、爆撃機Pe-2、その他。 

 しかし、独ソ戦が始まった1941 年夏になっても、軍における近代的な装備の割合は依然として非常に低く、旧式のものさえ不足することがあった。

 「私は行軍中に、我が軍の旧式戦車のT-26、BT-5、さらに少数のBT-7を見て悲しくなった。これらが、長期の戦闘に耐えられないことは明らかだ。しかも、これらの戦車も、せいぜい定数の 3 分の 1 しかないのだ」

 ロコソフスキーはこう振り返っている。彼は、バルバロッサ作戦の初期には、第9機械化軍団を指揮していた。 

 1940 年には、軍事予算の最大 40パーセントがソ連空軍の開発・生産に費やされており、開戦時には、戦闘機のMiG-3 と LaGG-3 が配備されていた。これらは、戦術的・技術的特性の点で、ドイツ空軍の機体に劣っていなかった。しかし、1941 年の開戦時にはようやく生産が始まったばかりで、配備済みの戦闘機の大部分は旧式だった。

 1930 年代後半の日本およびフィンランドとの軍事衝突は、ソ連の防衛能力を向上させる上で重要な役割を果たした。これらの戦いから、軍指導部が教訓を得たからだ。たとえば、「冬戦争」の終結後、以前は過小評価されていた迫撃砲と自動小火器の生産が拡充された。

「スターリン線」

 十分に武装した数百万の赤軍は、ソ連国境に沿って構築された防御陣地で、敵を迎撃し粉砕するはずだった。1928 年、ベラルーシ、ウクライナ、プスコフ州、カレリアを結ぶ要塞線の建設が始まり、後に「スターリン線」として知られるようになる。

 要塞化された各地域は、相互に接続された要塞線をなし、その各拠点が、敵の攻撃が予想される方向に備えていた。ここで守っている部隊は、機関銃、対戦車砲、カポニエール砲を使用できた。

 1835キロメートルに及ぶ「スターリン線」は、マジノ線の 2 倍の長さだったが、軍事施設の数では著しく劣っていた。しかも、距離が長いため、要塞化された地域は、互いの行動を調整することがほぼ不可能だった。

 1939 年に、西ウクライナと西ベラルーシがソ連に併合され、1940 年にはバルト 3 国も併合されると、ソ連の国境は西に数百キロメートル移動した。「スターリン線」の建設は中止され、防御施設建造も中断。

 そして、新しい国境の要塞エリアの建設が始まった。しかし、バルバロッサ作戦の開始ま​​でに、せいぜい 20パーセントしか工事が終わらず、敵の侵攻を妨げることはできなかった。

 その一方で、急遽復帰した「老兵」つまりスターリン線は、ある程度の効果を示すことができた。「スターリン線」の要塞化された地域で守りを固めていた赤軍兵士が、ドイツ軍の進撃をわずか数日間遅らせただけだったとしても、これはしばしば友軍に、撤退して包囲を避ける貴重な時間を与えた。

 丸 10 日間、セーベジ要塞エリアは持ちこたえ、敵は後方に進入してようやく陥落させることができた。カレリア要塞地区は、レニングラード包囲戦において、1944 年に封鎖が突破されるにいたるまで、重要拠点の 1 つだった。北からこの都市に侵攻してきたフィンランド軍がここで食い止められている。

時間を稼ぐ

 ソ連が対ナチス・ドイツ戦争に向けて準備を加速させたにもかかわらず、そしてまた、この戦いが不可避であることを誰も疑わなかったにもかかわらず、開戦に至るまで、多くの問題が未解決のまま残されていた。

 赤軍は、戦車と航空機の数でドイツ軍を上回り、非常に強力に見えたが、しかし、その連絡、連携の技術が不十分だった。また、牽引車両と輸送手段が不足していたため、機動性が大幅に低下した。

 開戦の時点で、多くの部隊は適切な戦闘訓練を受けておらず、実戦で調整、修正されてもおらず、下士官も非常に不足していた。軍事学校には、急速に拡充される軍隊に対応する時間がなかった。

 これらすべてに加えて、部隊間の無線通信、各司令部の組織・運営、軍全体の指揮系統に重大な問題をかかえていた。

 ソ連の指導部は概して、こうした当面の問題を認識しており、開戦を少なくとも1年間遅らせようとした。国境に配備された軍と国境警備隊は、いかなる場合でも「挑発に乗らないように」命じられていた。 

 1941 年 2 月、国防人民委員代理キリル・メレツコフとの話のなかで、スターリンは次のように述べている

 「もちろん、我々は、1943年まで戦わずにいることはできまい。無理やり戦争に引きずり込まれるだろう。しかし、1942 年までは戦争せずにいられる可能性はある」

 陸海空軍の再編成と軍備刷新のための多くの計画は、まさに1942年に完了する計画だった。独ソ戦が勃発した1941年夏は、これらの計画の遂行が本格化していたその時だった。ソ連には時間を稼ぐことがどうしても必要だったが、結局、それはかなわぬ運命だった。

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