レフ・トロツキーとフリーダ・カーロ:ロシアの革命家と世界のフェミニズムアイコンの恋

歴史
ソフィア・ポリャコワ
 この突出した2人の関係は事実上、互いの夫や妻の目の前で深くなっていった。しかし、そうした状況も、倍ほどもある年齢差も、2人を止めることはできなかった。

 1936年、有名な革命家のレフ・トロツキーはヨシフ・スターリンの怒りから逃れるため、メキシコに亡命した。このとき、メキシコ大統領にトロツキーを保護するよう掛け合ったのがトロツキーの友人で、トロツキーの信奉者でもあったディエゴ・リベラである。リベラはヨーロッパで絵画を学んだ有名な画家であり、またソ連を訪れたことのある熱心な共産主義者であった。1937年、リベラは自らの崇拝するトロツキー夫妻を、若い画家で妻のフリーダ・カーロと暮らしていた自宅に招き入れた。そしてそこではまったく予期せぬことが起こったのである。

最良のボリシェヴィキ革命家の私生活

 レフ・トロツキーはもっとも目立ったソ連の政治家の1人であった。レーニンが流刑先から戻るまで、10月革命を率いた。またトロツキーは戦闘能力も組織力もなかった兵士たちから赤軍を組織した人物としても知られる。しかし、その成功は続かず、スターリンとの権力闘争により、追放、迫害されることとなる。トロツキーはレーニンの教えから逸脱しているとして非難され、党からも除籍、後にはソ連から追放された。メキシコに亡命するまで、トルコ、フランス、ノルウェーに住んだ。

 トロツキーの内縁の妻、ナタリヤ・セドワも、トロツキーと共にロシアを去った。しかし、トロツキーには書類上、アレクサンドラ・ソコロワという正式な妻がいたことから、セドワと結婚することはできなかった。トロツキーとソコロワは1900年に刑務所で結婚し、2人の娘をもうけたが、子どもたちは最終的に親戚に預けられることとなった。1902年に一家はシベリアに流刑され、トロツキーはそこからヨーロッパに逃亡した。それが事実上、夫婦関係の破綻を意味するところとなった。1902年、パリでトロツキーはナタリヤと出会い、まもなく内縁の妻となった。同時代者の証言によれば、トロツキーは浮気をしては、そのたびに彼女のところに戻ってきたという。ナタリヤは苦しみながらも、耐えていたのだという。そして、メキシコのリベラ宅で、若くて、生き生きとした、才能溢れる画家だったリベラの妻を見たトロツキーは、彼女に恋せずにはいられなかった。

フェミニズムのアイコンになったフリーダ

 フリーダは恐ろしい交通事故(乗っていたバスが路面電車に衝突)に遭い、重症を負って、何ヶ月も入院生活を送った後、18歳(1925年)で絵を描き始めた。ベッドの上にかけられた鏡に映る自分自身が、絵を描く対象の一つとなった。フリーダの作品の大部分は、彼女自身の心の動きを反映させたシンボルに溢れたシュルレアリスム的な自画像であった。フリーダ自身、「わたしは自分自身の現実を描いています。(中略)わたしの意識の中で生じていることを深く考えずに絵にしているのです」と語っている。自画像の一つ「ザ・フレーム」は、フリーダがまだ生きている間(フリーダは1954年に死去)に、ルーブル美術館が購入したが、これは、世界的に有名な美術館が購入した20世紀のメキシコを代表する画家、フリーダの最初の作品となった。

 事故で大きな傷を負ったフリーダだったが、その傷は、人生を楽しむ気持ちをフリーダから奪うことはなかった。彼女は男性用のメキシコの民族衣装を身につけたり、強いお酒を好むことを公言したり、汚い言葉を使ったり、数えきれないほどの恋愛関係を持ったり、信仰心をまったく持たないなどの独特のスタイルで人々を驚かせた。また頑固で、他人の意見に耳を貸さず、自分の自由を守ろうとし、子どもを喪失すること、中絶、裏切りによる心の痛みといった親密なテーマを作品に取り入れたことから、フリーダはフェミニズムのアイコンと称されるようになった。

 1929年、彼女は、自分より年齢が2倍以上も上だった有名な画家と結婚した。互いに愛し合っていたものの2人の生活は辛いものであった。ディエゴは浮気症で有名で、妻の妹とも関係を持っていた。そこでカーロも夫と同じような態度をとった。彼女を賛美し、彼女を取り巻く人々の中から、男性だけでなく、女性とも恋愛を楽しんだ。夫婦は喧嘩をしては別れていたが、結局は互いの元に戻るのだった。

画家たちの家で

 トロツキーとフリーダが同じ屋根の下に住むようになったことで、何も起こらないはずはなかった。若いフリーダは、夫と同様に、共産主義的な考えを持っていた。一家は多くの時間を共に過ごした。一緒に夕食をとり、ピクニックやエクスカーションに出かけた。そしてまもなく、フリーダとレフが互いに興味を抱くようになったのは誰の目にも明らかであった。

 トロツキーとカーロは、散歩の途中に、「偶然にも」、家の中庭で出会い、トロツキーは本の助けを借りて、愛の手紙を手渡した。フリーダの家で会いづらくなった2人は、フリーダの妹クリスティーナの家に移り住んだ。浮気グセのある夫に復讐したかったのか、本当に愛情を感じたのか、本当のところ、何がフリーダを突き動かしたのかははっきりしないが、トロツキーが情熱的なカーロに関心を持っていたことは確かである。

 ある意味で、2人はよく似ていた。どちらも、周囲の世界との戦いによって長年培われた強さを持っていたのである。ちなみに、フリーダのトロツキーに対する思いは真剣ではなかったという話もある。彼女はトロツキーの裏で、「ヤギ」呼ばわりしたり、女友だちのエラ・ウルフに、「老人を相手するのに疲れた」と書いたりした。トロツキーは実際、フリーダよりもかなり年上で、フリーダが29歳のとき、トロツキーは57歳であった。

 一方、リベラはこの関係に気が付かなかったのか、または気づかないようにしていたようだ。浮気は夫婦の間でごく普通のことになっていたのである。しかし、トロツキーの妻はそれほど忍耐強くはなかった。しかもトロツキーとカーロは、彼女がいる前で、かなりあからさまな会話を英語で交わしていたという。ナタリヤは英語が話せなかったからだが、明らかに「Love」という言葉だけは知っていた。

 トロツキー夫妻の関係は冷え切り、1937年6月末、2人は今後どうするか見極めるため、いったん別離した。トロツキーはディエゴの友人の家に移り住み、夫婦の間で文通が始まった。ナタリヤはこの出来事ですっかり落ち込んでいた。「誰にも会いたくないし、周りの忙しない生活も見たくない。何も食べたくもないし、このまま床に倒れ込んで、もう起き上がりたくもない・・・」とある手紙で彼女は夫に自分の思いを伝えた。この手紙にレフは答えた。「彼女はわたしにとって何者でもない。君はわたしにとってすべてだ。ナタ、そんなこと考えないでくれ、お願いだ」と。トロツキーは、結局のところ、勝利も敗北も追放も共に経験し、35年も共に過ごした女性への深い愛着を感じていたのである。

 トロツキーはコヨアカンに戻り、カーロとの関係を断ち切った。どちらから別れを切り出したのかは明らかになっていないが、フリーダの女友達はフリーダが別れたいと言ったと思うと話す一方で、研究者らはレフの提案だったとしている。

 フリーダはトロツキーからもらった手紙や誕生日に贈られた自画像などすべて返したが、カーロの家を出て、妻の元に戻る際、トロツキーはそれを持っていかなかった。2人は、1939年1月を最後に、2度と会うことはなかった。