ロシア帝国成立に大貢献した5人の外国人

歴史
ボリス・エゴロフ
 18 世紀初頭、皇帝ピョートル 1 世(大帝)は、国の大改革を断行し、「バルト海の覇者」、スウェーデンを打ち破り、ロシアをヨーロッパ列強の一つに押し上げた。外国の専門家たちも、この大事業において彼を助けている。

1. ヤコフ・ブリュース

 「博学多才で清廉潔白な人物」。ヤコフ(ジェイムス)・ブリュースは、ピョートル大帝の右腕で側近中の側近だが、その彼について駐露大使チャールズ・ウィットワース(初代ウィットワース男爵)は、こう評している。

 ブリュース家は、スコットランドの最も由緒ある名門の1 つで、ヤコフ自身は、1647 年からロシアに住んでいた。彼の祖先のなかには、ロバート1世(スコットランドの「解放王」、ロバート・ブルース、1274~1329年)もいる。

 ブリュースは数学者、天文学者、外交官、技術者、翻訳者として多彩な能力を発揮した。彼を魔術師とみなす者さえいたほどだ。

 しかし、このスコットランド人の主な仕事は、大砲の改良と砲兵隊の育成だった。1700~1721年の対スウェーデン戦争(大北方戦争)のさなかにロシア軍の砲兵隊全体を一任された彼は、やがてそれを別次元のレベルに引き上げることに成功した。

 ブリュースは、兵器の新モデルを製作し、大砲の信頼性、威力、機動性、射程を向上させるためにたゆまぬ努力を続けた。そして、大砲は統一基準にしたがって製造され始める。さらに、彼は砲手の生活を支え、適切な訓練を施すことを怠らなかった。彼は、砲兵隊こそはロシア軍の真のエリートであると見ていた。

 このスコットランド人の精励ぶりはすぐに成果をもたらした。早くも 1702 年に、スウェーデンのノーテボリ(シュリッセリブルク)要塞の包囲、占領は成功し、その後、 ニエンシャンツ、デルプト(現在のタルトゥ)、ナルヴァをも占領。

 ブリュースが指揮する効果的な砲撃は、1709 年のポルタヴァの戦いにおけるロシア軍大勝の重要な一要因となり、その後の戦争の帰趨を決した。

 その12年後、ヤコフ・ブリュースは、アンドレイ・オステルマンとともに、ニスタット(現在のフィンランドのウーシカウプンキ)において、スウェーデンとの和平交渉でロシア代表団を率いた。締結された和平の条件によると、ロシアは、イングリア、リフリャンディア(ラトビア中部および北部)、エストリャンディア(エストニア)、およびフィンランド南東部に対する「完全無欠にして永遠の所有権」を獲得した。同 1721 年に、ピョートル 1 世の国家は帝国と宣言された。

2. ゲオルク・ヴィルヘルム・デ・ゲンニン

 1697年にロシアにやって来たヤコフ・ブリュースと同じく、ドイツ人技術者ゲオルク・ヴィルヘルム・デ・ゲンニンもまた「軍神」つまり大砲に携わった。間もなく始まったスウェーデンとの大北方戦争において、彼は大砲製造などを教え、ヴィボルグおよび多数のスウェーデンの要塞の占領に自ら参加した。

 デ・ゲンニンの傑出した組織力を見抜いたツァーリ、ピョートル 1 世は、サンクトペテルブルクとカレリアに兵器と火薬の工場を建設することを彼に任せた。進取の気性に富んだドイツ人は、そこにロシア初のリゾート地、マルツィアーリヌイエ・ヴォードゥイも建設している。  

 彼の仕事の成果に満足したツァーリは、ダイヤモンドで飾られた自分の肖像画を彼に贈り、ウラルで産業を興すよう彼に命じた。そこで、ヴィリム・イワノヴィチは――ロシアで彼はこう呼ばれていた――、旧式の生産設備を修復、近代化しただけでなく、12年間で9つの新工場をゼロから建設。ペルミやエカテリンブルクなど地域の中心都市の基礎を築くのに参加した。

3. パトリック・ゴードン

 1661 年にパトリック・ゴードンは、ピョートル 1 世の父、アレクセイ・ミハイロヴィチに仕え始める。そのとき、彼は既に百戦錬磨の軍人だった。スコットランドのこの「幸運の兵士」は、ポーランドとスウェーデンの旗の下でいくつかの軍事作戦に参加していた。

 1689 年に摂政ソフィアと、その異母弟でツァーリのピョートル1世との間で権力闘争が起きたとき、第 2 モスクワ(ブトゥイルスキー)選抜連隊を指揮していたゴードンは、ピョートルを強力に支え、無血の勝利を確実にした。それ以来、このスコットランド人は、将来のロシア皇帝の揺るぎない信頼を得るようになる。

 ピョートルは、根本的に新しい強力な軍隊を創ることを夢見ていた。欧州列強の軍隊に挑戦できるような軍隊だ。パトリック(ピョートル・イワノヴィチ)・ゴードンの知識と経験がまさにその役に立った。

 優秀な軍事専門家である彼は、すべての軍事問題についてツァーリに助言しただけでなく、西欧を範として編成されたセミョーノフスキー連隊とプレオブラジェンスキー連隊の教育と訓練も行った。これらは、彼の提案で近衛連隊と命名された。

 ゴードン自身、1695年と1696年のトルコに対するアゾフ遠征で軍隊を率いて戦った。しかし彼は、教え子たちが大活躍した大会戦を生きて目にする運命になかった。ロシア近衛連隊の64歳の「ゴッドファーザー」は、対スウェーデンの大北方戦争の文字通り前夜に、1699年に亡くなった。

4. フランツ・レフォルト 

 ジュネーブの商人の息子であるフランツ・レフォルトは、ピョートル 1 世の側近中の側近であり同志でもあった。彼は、ロシアを速やかにヨーロッパ化しなければならぬというツァーリの信念を完全に共有し、その欧化の過程で彼を積極的に助けた。

 レフォルトは、欧州最高の軍事および民間の専門家を見つけて、ロシアで勤務するよう勧誘した。その際に彼は、「神の恵みにより、我々は、外国人に対してかつてなく慈悲深い政府の下で暮らしている」と語った。レフォルトは、欧州モデルによるロシア陸海軍の基盤を築いた。ツァーリの意志により、レフォルトは、陸軍大将と海軍大将の階級を与えられた。

 レフォルトは、1699 年に43 歳の若さで突然亡くなった。ロシアにとって運命的な大北方戦争が始まる直前のことだ。「彼だけが私に忠実だった。今、私は誰を頼ればいいのか!?」。ピョートルは友の死を深く嘆いてこう言った。

 今日、ロシアの首都モスクワの最も古い地区の 1 つは、このジュネーブ人の名前を冠している。

5. ゲンリフ・ヨガン・フリードリヒ・オステルマン(アンドレイ・オステルマン)

 彼は、ヴェストファーレンのボーフムの生まれ。オステルマン(ロシア名はアンドレイ・イワノヴィチ)は、真にユニークな人物だった。ドイツ語、オランダ語、ラテン語、フランス語、イタリア語に堪能で、1704 年にピョートル大帝に仕えるよう招かれると、ロシア語も難なく習得した。

 オステルマンは、大使館の単なる通訳からキャリアを始めたが、出世階段を駆け上がり、1721 年にニスタットで行われたスウェーデンとの和平交渉においては、(ブリュースとともに)ロシア代表団の首席となっていた。

 長年にわたる戦争で疲れ果てていたピョートルは、相当な譲歩をする用意があったが(たとえば、占領したヴィボルグを敵に返す)、アンドレイ・イワノヴィチは、固い決意と忍耐力を発揮し、スウェーデンとの平和条約締結にこぎつけた――ロシアにとって最高に有利な条件で。

 大いに満足した皇帝は、オステルマンに男爵の爵位を授けた。この外交官はまた、1723年にペルシャと極めて有利な貿易協定を結んでピョートルを喜ばせた。さらに、国内政策についても皇帝に助言している。

 1725 年にピョートル大帝が亡くなった後も、オステルマンは、ロシアの外交政策を主導し続け、海軍の大規模な再編成も行った。だが、このドイツ人の特権的地位は、1740年に、彼を重用していた女帝アンナ・ヨアーノヴナの死とともに失われた。

 エリザヴェータ・ペトローヴナ(大帝の娘)がクーデターで即位すると、オステルマンは、大逆罪で告発され、車裂きの刑を宣告された。死刑は結局、ウラルへの流刑に代えられ、彼はそこで1747 年に亡くなった。

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