「モスクヴィッチ車はゆったりした4ドア・サルーンでお買い得です!」これは、ソビエト車「Moskvich 408」(別名 「Scaldia 408」)の広告だ。1968 年 7 月のイギリスの雑誌「Autocar」に掲載された。
そう、緊張した関係と冷戦にもかかわらず、ソ連は西側と積極的に貿易していた。自動車産業に加えて、ソ連の輸出のもう一つの成功品目は写真機材だった。カメラ「ゼニート」は、英国、アメリカ、フランスその他のヨーロッパ諸国で成功を収めた(Cosmorex、Kalimar、Spiraflex、Phokinaなどのブランド名で売られた)。
しかし、ソ連の消費財は、海外で広く販売されることはなかった。何と言っても、ソ連の主な輸出品は石油とガスだった。1970 年に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と結ばれた「天然ガス・ガスパイプライン交換協定」は、欧州との長年にわたるエネルギー協力の始まりを画した。ソ連のほうは、大規模な鉄道と水路の建設のために、外国の技術を導入した。
1946 年にウィンストン・チャーチル英首相がミズーリ州フルトンで行った演説の一句「鉄のカーテン」は、ソ連と西側諸国の冷戦開始を告げるものとなった。1949 年にソ連は、米英およびその同盟国に対抗し、戦後も自らの友好国との緊密な関係を保つために、経済相互援助会議(コメコン)を創設した。
フルトンで演説しているウィンストン・チャーチル
AP Photoコメコンには、社会主義陣営の国々が加盟した。すなわち、ポーランド、ブルガリア、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、アルバニアが(1962 年まで)、さらにその後は、東ドイツ、モンゴル、キューバ、ベトナムが加わる。 コメコン加盟国は、20 世紀後半にソ連の主要な貿易相手国となった。
コメコン加盟国は、ソ連から燃料を世界価格よりも安く買い、ソ連に機械、設備、プラント、および農工業製品、消費財を供給した。1960 年のデータによると、ソ連の輸入の 58% と、輸出の56% はコメコン加盟国だった。
1956年、ソ連の指導者、ニキータ・フルシチョフ第一書記は、国の「非スターリン化」と、資本主義世界との「平和共存」の路線について発表した。1959 年、彼はソ連の代表団とともに渡米し、さまざまな分野の最新技術を視察。それらのいくつかは、何らかの形でその後ソ連に実際に導入された。
訪米中、農場を訪れたニキータ・フルシチョフ、1959年
AP Photo1964 年、フルシチョフの後にソ連最高指導者となったレオニード・ブレジネフは、その後 20 年間、コメコン加盟国との緊密な関係は保ちつつ、工業の発展した資本主義国(米、仏、スペイン、イタリア、日本、ドイツその他)との緊張緩和路線を引き継いだ。1975 年にソ連は、米国と欧州を含む 34 か国の指導者とともに、「全欧安全保障協力会議」において「ヘルシンキ宣言」を採択した。
訪米中、ズーパーでリンゴの値段を聞いているニキータ・フルシチョフ、サンフランシスコにて、1959年
AP Photo確かに、1979年にソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると、米国との関係は再び緊迫した。それにもかかわらず、1986年の時点では、ソ連の対外貿易量では、社会主義国が67%(うちコメコン加盟国が61%)、先進資本主義国が22%、発展途上国が11%を占めていた。輸出収入は国家予算の 1/5 に達した。
1970 年代から 1980 年代にかけて、ソ連は、西側への燃料(石油と天然ガス)輸出国になった。 当時の欧州諸国の経済は、急速に発展しつつあり、エネルギー資源を必要としていた。
1970 ~1986 年に、ソ連の総輸出に占めるガス供給の割合は、1% から 15% に急増した。1970年、ソ連は西独と、「天然ガス・ガスパイプライン交換協定」を結んだ。これは、西シベリア産のガスと引き換えに、西欧に向けてガスパイプラインを敷設するための大口径鋼管と設備をソ連に供給するものだ。
天然ガスパイプライン「ソユーズ」の建設作業
E. Kotlyakov/Sputnik米国の不満にもかかわらず、この取引は、ソ連のガス供給に関する複数年契約のなかでも重要なものの1つになった。こうした複数年契約は、西欧諸国(フランス、イタリア、オーストリア)と結ばれている。
1970 年には、天然ガスの輸出量は 33 億立方㍍だったが、1986 年には792 億立方㍍に増加。1986 年の燃料と電力の輸出に占める割合は、全体の47.3%に達していた。
1986 年度のソ連の輸出(%)
2 番目に重要な輸出品目は、機械、設備、車両だ。1986 年には、輸出におけるそれらの割合は15% にのぼった。
たとえば、MZMA工場(後のAZLK)で製造されたモスクヴィッチ車は、1960 年代後半に国際ラリーに参加して成功を収めると、欧州で知られるようになり、英仏で買われた。モスクヴィッチ車は、ブルガリア(Rilaブランド)とベルギー(Scaldia ブランド)の企業でも組み立てられた。
モスクヴィッチ車を見せるモデル、自動車展示会にて
Evening Standard/Getty Imagesソ連の車両および関連製品の販売のピークは1980 年代だった。1986 年には、乗用車30万6千 台、トラック 3万8千台、トラクター3万9千台、バス 2,919 台が輸出された。
軍用車、軍用機も盛んに輸出された。1971年からソ連崩壊まで、数万点(戦車、航空機、ヘリコプターなど)を輸出。
ソ連はまた西側諸国に、火力発電所、水力発電所、原子炉用の電力設備を供給し、またタービンや発電機の製造、発電所プロジェクトのライセンスも販売した。
ソ連の最後の 10 年間では、他の製品が輸出に占める割合は、上に挙げたものよりずっと小さい。それでも、ソ連製カメラ「ゼニート」、時計「ポリョート」、ラジオ受信機「ミクロ」を懐かしむ外国人は少なくないだろう。
イギリスでもっとも「Made in USSR」のカメラを売ったセールスマン、1968年
Valentin Cheredintsev/TASS1940~1986 年のデータによると、ソ連の輸入では、30% 以上が機械、設備、車両の購入だった。1986 年にはすでに 40.7% を占めていた。
1986 年度のソ連の輸入(%)
ソ連は外国のパートナーから、電気、電力、冶金設備を盛んに購入した。そのほか、工作機械、鍛造プレス、車両、トラック、船舶なども輸入。
1945~1991年のソ連は、約50万台の車両を輸入した。外国製トラック―― Tatra 111、Skoda-LIAZ、三菱ふそう、コマツ、日産 ――などが、ソ連の主要な建設現場(ヴォルガ・ドン運河やバイカル・アムール鉄道)で使われていた。
乗用車は、たとえ国産車であっても、長年にわたって贅沢品であり続け、外国車は政界のエリートとその周辺の人々の手にしか届かなかった。1986 年、トラックとガレージ設備は輸入の 3.5% を占めたが、乗用車、オートバイ、スクーターはわずか0.5%にすぎなかった。
ソ連が輸入した商品のリストの2位は食品だ。都市化と農村人口の都市への流入により、食糧問題が国内で始まった。1960 年代初め、食品の配給券が、一部の地域で配布され始め、肉、牛乳、穀類などの食品が不足した。
クラスノダール地方農業研究大学の畑を訪れたハンガリー代表者
A. Zhigailov/Sputnik資料集『ソ連の国民経済 70年』によると、1960年代から1980年代にかけて、ソ連は穀物、お茶、肉、果実、果物、砂糖を定期的に輸入していた。そして、輸入量はひたすら増加していった。1960 年には、6万6千トンの肉および肉製品を購入していたが、1980年には90万トン以上に達していた。1960年の果物と果実の輸入量は33万5千トンで、1980年には99万5千トンと右肩上がり。
穀物については、大祖国戦争(独ソ戦)後、ソ連は、欧州への穀物輸出を再開し、1952 年には年間 450 万トンの輸出量に達していた。さらにソ連は、栽培の量を増やしたいと考え、カザフスタンで処女地の開拓を始めたが、過酷な気候のために、期待した結果をもたらさなかった。
巨大国家の住民が穀物を必要としていたのに、相当量が輸出に回されたことに加えて、大量の穀物が家畜の飼料に使用された。ソ連には、食肉と牛乳の生産量を増やす計画があったからだ。
ソ連の指導者、ニキータ・フルシチョフ第一書記の農業キャンペーン(米国訪問の後に始めた)、つまり、かなり気まぐれなトウモロコシ栽培の運動も、穀物増産には役立たなかった。農業予算の一部がトウモロコシの栽培に費やされただけだ。
その結果、1963 年にソ連は、米国とカナダから飼料穀物を輸入し始める。1972 年の輸入量は 2300 万トン、1980 年には 4300 万トンに増えた。
ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの死後、1950 年代後半に、ソ連は、国民福祉を改善する路線を取り始める。しかし、ソ連の消費財生産はすべての人には足りなかった。
1981 年の共産党大会では、「多くの消費財、とくに生地、ニットウェア、革靴の生産計画が毎年達成されていない」ことが確認された。
当時、一人当たりのニットウェアは2.1着、靴は3.2足だった。エネルギー資源の輸出代金は、革靴、ニットウェア、綿と絹の織物、医薬品などの輸入にも回された。
ソーセージの店前に出来た行列、1977年
Vladimir Sergienko/MAMM/MDF/Russia in photo人々が共同住宅(コムナルカ)から個別のアパートへ移転するにともない、家具の需要も高まった。ソ連国民は、チェコとルーマニアの家具に憧れたが、在庫はいつも足りなかったので、家具店で購入の順番待ちの登録をした。
こうして、消費財の輸入量は増えたが、にもかかわらず、ソ連の最後の 10 年間は、品不足の時代として多くのソ連国民の記憶に残った。
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