「わがロシア艦隊は当地で、極度に友好的に大歓迎された。軍服姿では、海岸に出ることさえできない。こちらが彼らを見るのではなく、こちらが彼らの注目の的だからだ。そして、彼らは近寄って来て(ご婦人方さえも)、ロシア人への敬意を表し、ニューヨークにお出でくださって嬉しいと歓喜するだろう」
こう書いているのは、将来の有名な作曲家 ニコライ・リムスキー=コルサコフだ。1863年当時は海軍士官で、ロシアのクリッパー(快速帆船)「アルマズ」に乗り組んでいた。この船がニューヨークに投錨したのだった。
ロシア艦隊の任務は極秘にされていたので、ロシアの軍艦がアメリカ沖に出現したことは、ロシア帝国の駐米全権大使エドゥアルド・ステクリにとっても驚きだった。ニューヨークの社会全体も当惑した。ロシア海軍の艦隊の訪米は、何が公式の目的だったのだろうか?
ロシア艦隊司令官のステパン・レソフスキー海軍少将は、有名な米国人ジャーナリスト、サーロウ・ウィードへのインタビューで、次のように述べている。ロシア政府は、封印された封筒を彼に託した。これは、米国が外国との武力紛争に突入した場合にのみ開封されるべきである、と。
しかも、レソフスキー艦隊(6 隻の軍艦と 3千人の乗組員)の行動は単独ではなかった。同じ頃、1863 年 9 月、ポポフ少将率いる艦隊が西海岸に停泊し、サンフランシスコを拠点とした(6 隻の船と 1200 人の将兵)。ロシアは何を考えていたのか?
ロシアと米国が同盟国になったいきさつ
ロシア帝国はもともと、イギリスからの米国の独立を支持していた。1776 年、アメリカ独立戦争が勃発した後、エカチェリーナ2 世は、英国王ジョージ 3 世の求めを拒んだ。英国王は、革命家から英国王室の資産を守るために、ロシア軍将兵2万人を米大陸に送るよう要請していた。ロシアは、次の世紀にも英国の利益に反して行動するケースがあった。
ロシアでアレクサンドル 2 世が即位し、大規模な改革を開始したのは、クリミア戦争での惨敗後のことだ。この戦争でロシアは、英国、フランス、オスマン帝国の連合軍と戦った。しかしその際に、米国北部は中立を保ち、ロシアを支援しさえした。たとえば、米国船は、英仏艦隊がロシアの極東の海岸を封鎖しているときに、ペトロパブロフスク・カムチャツキーに食料と水を供給している。
終戦後の1856年、露外相アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵は次のように記している。
「ロシアへの米国民の同情は、戦争の全期間を通じて弱まることはなかった。そして、米国は、厳格な中立を堅持する国から期待されるよりも多くの支援を、直接または間接にロシアに提供してきた」
ゴルチャコフはさらに次のように指摘している。「ロシアの対米政策は定まっており、他国の方針によって変わることはない。何よりも我々は、米国が分裂せずに維持されることを望んでいる…。ロシアに対して、介入計画への参加に関する申し出がなされた。しかしロシアは、この種のいかなる提案も拒否するだろう」
クリミア戦争での敗北は、ロシアを著しく弱体化させ、国際的な威信を低下させた。1863 年にポーランド(1815 年からポーランド王国としてロシアの衛星国となり、後に直轄統治)で反乱が起きたとき、英仏はロシア政府に圧力をかけることを決定した。
ロシアは、反乱鎮圧のためにポーランドに派兵したが、ポーランドを隷属化するものと非難された。英国議会の下院は、ロシアがポーランド王国へのすべての権利を失ったとの声明を出し始める。1863 年 6 月には、英仏は、ポーランド問題を解決するために欧州列強の会議招集を要求した。
しかし、ニューヨーク・デイリー・トリビューン紙が正しく指摘したように、「ポーランド人の苦しみに対する衷心からの同情は、英仏政府からは、ましてやオーストリア政府からは期待できない」。
これと時を同じくして英仏政府は、アメリカ合衆国(北部)とアメリカ連合国(南部連合)の戦争にも介入しようとした。英国は、奴隷を所有する南部諸州を「交戦国」と認め、それを実際に支援する用意があった。綿の生産地としての南部を支配することは、英国の繊維産業にとって必要だったからだ。
1863 年 6 月、英国が5 隻の軍艦を北米大陸沿岸に送ったことが判明した。この艦隊は、カナダのブリティッシュコロンビア州のエスキモルト港に拠点を置いた。一方、米国の北部諸州には、彼ら自身の艦隊はまったくなかった。
フランスもメキシコに触手を伸ばした。1863年6月、フランス軍はメキシコシティを占領。さらに、フランス軍は密かに南軍に武器を供給した。こうした状況のもと、1863 年 6 月 25 日、アレクサンドル 2 世は極秘で、2 人の少将が指揮する自国の軍艦を米海岸に派遣した。
ロシア艦隊はいかに米国を守ったか
「ロシア艦隊がやって来たのは彼ら独自の理由によるが、そのプレゼンスの利点は、英仏に対し、米国を干渉から守るために来援したと思わせたことだ」
こう書いたのは米国務長官ウィリアム・スワードだ。彼がこれを記したのは、ロシア艦隊が米海岸を離れた後のことで、同艦隊は一発も発射せず、敵船を一度も目にすることはなかった。しかし、もし敵艦に遭遇した場合は、ロシア人はどう行動すべきか弁えていただろう。つまり、ポポフ海軍少将がサンフランシスコに停泊中の指揮下の艦船に命じたように、「戦闘の準備をせよ」ということだ。しかし、南軍の2隻のフリゲート艦、アラバマとサムターは、太平洋岸におけるポポフ艦隊を敢えて脅かそうとはしなかった。
ロシア艦隊の滞在は、1863年9月から1864年7月まで続いた。この間、ロシア人はキューバ、ホノルル、ジャマイカ、ハワイ、アラスカを訪れ、当然のことながら、舞踏会やレセプションのスターとなった。
アメリカの研究者、マーシャル・デヴィッドソンが書いた通り、「公式行事と祝賀の奔流は、ロシア艦隊の将校を押し流し、彼らの耐久力を、公海上でさえなかったような試練にさらしたに違いない」。
最も記憶に残った晩餐会は、1863 年 11 月 5 日のニューヨークでのものだ。ニューヨーク・ワールド紙の報道によれば、1万2千個のカキ、計1,850羽の七面鳥、鶏、雉が宴会に出され、3,500 本のワインが開けられた。
お菓子が置かれたテーブルは、米国とロシア帝国の現在の元首、エイブラハム・リンカーンとアレクサンドル2 世の、そして建国の父であるジョージ・ワシントンとピョートル大帝の砂糖の彫刻で飾られていた。
ロシア人に対するこの晩餐会は、その規模でも費用でも、米国人がその前年にプリンス・オブ・ウェールズに対して開いた公式レセプションをはるかに上回っていた。
ロシア人はすぐに、旗艦のフリゲート艦「アレクサンドル・ネフスキー」において、答礼の晩餐会を開催。ダンスは 11 時間続き、晩餐会の終わりに、レソフスキー少将は、ニューヨークの貧困層のために4,700 ドルを寄付した。
もちろん、公式レセプションもあった。レソフスキー少将と艦隊の指揮官は、ホワイトハウスに招かれ、エイブラハム・リンカーン大統領夫妻に会見した。
なぜロシア帝国は米海岸に艦隊を送ったか
ロシア艦隊が米海岸にあった間、英仏のいずれも、米国の北部諸州に対して、またポーランドにおいて、ロシアに敵対する行動に敢えて出ようとしなかった。1864 年 6 月、ポーランドの武装蜂起(1月蜂起)は鎮圧され、ロシア艦隊は帰国を命じられた。これは偶然の一致ではなかった。
ロシアの両艦隊は、英仏の連合艦隊と戦うには弱小だった。しかし、このレソフスキーとポポフの艦隊は、英仏両国の海外貿易を著しく混乱させかねなかった。
ロシア帝国の海軍大臣は、レソフスキーにこう指示していた。「戦争が始まった場合は、敵の通商を破壊し、敵の守りが脆弱な施設、物資を攻撃する。主に大西洋で活動しなければならないが、自身の裁量で、自由に活動を他の地域に移し、戦力を分割することができる」
レソフスキーとポポフは、アメリカ合衆国(北部)とアメリカ連合国(南部連合)の戦いに巻き込まれぬように特別の指示を受けていた。しかし、彼らが率いるロシア艦隊が米国の港にあることは、ロシアに次の点を保証した。すなわち、仮に英国がロシアに対して戦争を始めた場合、少なくともこれらの2つの艦隊が手持ちの戦力となり、英仏の海上貿易を攻撃できる。
ロシアのニコライ・クラッベ海軍大臣が述べたように、「大西洋と太平洋にある少数のロシアの大砲は、セヴァストポリのそれよりもはるかに大きな影響を英国に与えるだろう」。
実際、レソフスキーとポポフの任務は、まったく砲火を放つことなく、成功した。アレクサンドル 2 世は、2 つの艦隊の作戦を、ロシア海軍が実地に行った最大の功績の一つであり、自身の治世の歴史における特筆すべき一頁とみなしていた。
ロシア艦隊の将兵は、帝都サンクトペテルブルクで勝利者として迎えられた。同市の米国大使館で行われたレセプションで、ヘンリー・バーグ書記官は次のように述べた。
「露米間には友情があり、それは、いかなる悪しき記憶にも曇らされていない。友情は、相互に内政干渉しないという確固たるルールの下で、今後も続いていくだろう。このような政策が世界のすべての政府にもたらす巨大な利益は、想像に難くない――もし彼らが、国際関係においてそれを注意深く遵守するならば」