スモレンスクは、何世紀にもわたってロシアの防衛体制において重要な役割を果たしてきた。現代のベラルーシとの国境に位置するスモレンスクは、ヨーロッパからロシアの心臓部、モスクワに至る最短ルートを守る位置にあった。
将来の「ロシアの盾」――スモレンスクはしばしばそう呼ばれる――が年代記において初めて言及されるのは863年だ。既に当時、この都市は、東スラヴ民族の部族連合体「クリヴィチ族」の中心都市であり、人口も多く、守りも堅かった。882年、オレグ(キエフ大公)は同市を、今日「キエフ・ルーシ」と呼ばれる古代ロシア国家に併合した。
12世紀にキエフ・ルーシが事実上分裂すると、スモレンスクは、大きな独立した公国の首都になった。当時この都市が繁栄していたのは、バルト海⇔ビザンチン(東ローマ帝国)の交易路における重要拠点だったおかげだ。このルートは、「ヴァリャーグからギリシアへの道」として知られている。
13世紀半ばにモンゴル帝国がロシアを侵略し壊滅させると、スモレンスクの繁栄と平安の時代は終わりを告げた。しかしこの時、同市にとって主要な問題となったのは、東方からの「新入り」ではなかった。
ロシアの地が弱体化した機に乗じ、リトアニア大公国は、領土を著しく拡大した。リトアニアは、「ロシアの諸都市の母」であるキエフ(キーウ)まで征服しており、その勢力圏にスモレンスクを加えないわけにはいかなかった。
二つの大公国は、同盟することもあれば、戦場で衝突することもあったが、結局、1404年、リトアニア大公ヴィータウタスは、2か月間の包囲戦の後、スモレンスクを占領し、その独立を奪い、自国に併合した。
早くもその6年後には、スモレンスクはポーランド・リトアニア軍の一翼を担い、タンネンベルクの戦い(またはグルンヴァルトの戦い)で、ドイツ騎士団を大敗させている。
「この戦いで、スモレンスクのロシア人騎士たちは、その三つの旗を掲げて、彼らだけが潰走することなく、頑強に戦った。ゆえに大いなる栄光に値した」。15世紀ポーランドの年代記作者・軍人であるヤン・ドゥウゴシュは、彼らについてこう称賛しつつ書いている。
モスクワ大公国は、この頃までに、ロシア統一の要(かなめ)をなす存在になっていたが、現状に甘んじるつもりはなかった。すなわち、スモレンスクの強力な要塞からモスクワへは、一本道(スモレンスク街道)が通じているというのに、その要塞は、モスクワ大公国の地政学上のライバルの手中にあるのだ。
こうして、ロシアとリトアニアの間で(1569年にポーランド・リトアニア共和国が形成されると、ポーランドも加わる)、何十年にもわたるスモレンスク争奪戦が始まった。
モスクワ大公国は、1512~1522年の戦いでの成功の後、スモレンスクを支配下に置いた。しかし、17世紀初め、ロシアが深刻な政治的・経済的危機に見舞われた時期に、ポーランドに同市を割譲することになる。この時代は、「スムータ(大動乱)」として知られている。
1632~1634年のいわゆる「スモレンスク戦争」でも、スモレンスクを奪回することはできなかった。ようやく、「十三年戦争」(ロシア・ポーランド戦争〈1654年~1667年〉)が終結した1667年に、同市は、ロシアのツァーリの支配下に置かれることになる。この戦争は、ポーランドでは「ロシアの大洪水」と呼ばれている。
「スモレンスクは、堅固に築かれた広大な都市だ。ロシア人はそれを、祖国の難攻不落の要塞とみなしている。最近、ポーランドから返還された後、すべての外国の大臣や大使は、ここに入ることを禁じられている。彼らが要塞の配置、位置関係を知り、戦争に際してその知識を活用することを懸念するからだ。
スモレンスク総督の地位は、最高の栄職であり、ツァーリに完全に信任された貴族が任じられる(当時は、ツァーリの縁戚に当たる者が務めていた)。市には大部隊が駐屯している。外国人をそこに入れることは厳禁であり、死刑をもって罰せられる」。1675年にスモレンスクを訪れたオーストリア人外交官、リゼック・アドルフはこう記している。彼のために、市当局は例外を設けた。
18世紀には、ロシア帝国の国境は著しく西方に移動したが、それでもスモレンスクは、まだいくつかの主要な戦いに参加する運命にあった。1812年の祖国戦争(ナポレオンのロシア遠征)のさなか、バルクライ・ド・トーリ率いる第1軍とバグラチオン指揮下の第2軍は、まさに同市において、8月3日に合流を果たす。それまでは、ナポレオンの「大陸軍」が破竹の進撃を続けるなか、第1軍と第2軍は、西方の国境付近からそれぞれ別個に撤退してきた。
8月16日、祖国戦争における最初の大規模な戦闘が、スモレンスクおよびその近郊で始まり、戦いの結果、両軍合わせて約2万人の死傷者を出した。ロシア軍は、市を放棄して撤退することを余儀なくされたものの、ナポレオンは、彼が当てにしていたように、敵を完全に撃破することはできなかった。
間もなくフランス軍は、スモレンスクに入ったが、そこは炎に包まれ、住民は退避した後だった。「フランス軍は、軍楽を奏でつつ、いつもの華やかさで、あちこちで煙の上がる、血塗れの廃墟を次々に通り過ぎていった。しかし、フランス軍の栄光を目にする者は、誰もいなかった。それは観客なき見世物であり、勝利はほとんど無益であり、栄光は血みどろであった。我々を取り巻く煙がいわば、我々の勝利の唯一の結果であり、その象徴だった!」。当時准将でナポレオンの副官を務めていたフィリップ・ポール・ド・セギュールはこう書いている。
第二次世界大戦中、スモレンスクは、モスクワに急行していたドイツ中央軍集団にとって難関となった。ドイツ国防軍最高司令部の計画によれば、この都市は6月29日までに占領されることになっていたが、ドイツ軍は9月までここで立ち往生しなければならなかった。
赤軍は約75万人の死傷者、捕虜、行方不明者を出したものの、ドイツの電撃戦を遅らせることができた。
「スモレンスクの戦いは2か月間続き、一連の激しい戦闘が含まれていた。独ソ双方はそれぞれ、勝ったり負けたり、見事な勝利を上げたりしたが、その代償は極めて高くついた。それは、ソ連の将兵が戦いの技能を磨く学校となった。また、ソ連軍総司令部(STAVKA)を含む各司令部にとっても貴重な学校となった。彼らは、かくも頑強で経験豊富な敵に対して、いかに現代的な戦闘を組織すべきか、激しい戦闘のなかで――しかもその形態がしばしば変化する――いかに軍隊を指揮すべきかを学んだのである」。アレクサンドル・ワシレフスキー元帥は、回想録のなかでこう指摘している。
赤軍は1943年9月25日にスモレンスクを解放した。その後、多大な苦しみを嘗めてきた「盾の都市」は、ついに当然の休息をとることができた。