1812年 ナポレオンの「大陸軍」が壊滅:主な原因は「冬将軍」ではなかった…

Russia Beyond (Louis Bombled / Le Petit Journal / Public Domain)
 1812年のナポレオンのロシア遠征において、冬季に入ると、彼の「大陸軍」も、追うロシア軍も厳寒に苛まれた。しかし、ナポレオン軍を決定的に壊滅させたのは、実は、「冬将軍」ではなかった。冬将軍の猛威は、さまざまな文献、資料に恐ろし気に描かれてはいるが…。

 1812年のナポレオンの敗北は、まさに壊滅的なものだった。当時、ロシア軍に勤務し戦ったスイス出身の軍人、アントワーヌ・アンリ・ジョミニは、著書『ナポレオン政治的軍事的生涯』の中で、ナポレオンは、ロシア侵攻に直接30万人を超える軍隊を送り込んだと書いている(大陸軍の総数は60万人以上におよんだ)。

ナポレオン軍の撤退、ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン画

 ベレジナ河畔の戦い(1812年11月26~29日)で、大陸軍の残軍が、どうにか渡河してロシアから逃れたが、その数はわずか2~3万になっていた。つまり、この時点までに大陸軍の約90%が、ロシア遠征中に戦死、負傷、落伍して失われたことになる。
 しかし、ヨーロッパの新聞各紙では、この敗北は主に、ロシア軍によるものではなく、フランス軍が遭遇した厳寒のせいだとされていた。

ナポレオンはいかに冬将軍を発明したか

大陸軍の第29広報、1812年12月

 新聞『ル・モニトゥール・ユニヴェルセル』は、ナポレオンの主な宣伝手段だった。1812年のロシア遠征中に、同紙は、戦況の広報をフランスで速報している。公報は、しばしばナポレオン自身が執筆した。

 ナポレオンは、自軍の将兵も公報を読むことを承知していたので、遠征中に彼らを鼓舞しなければならぬと感じていた。ロシアの研究者アナスタシア・ニキフォロワによれば、広報は、ナポレオンの兵士の偉業を強調し、ロシア軍の勝利については沈黙を守っていた。

 さて、この広報は定期的に天候についても報じており、10月26日、第24公報は、次のように書いている。「天候は良好。昨日、初雪が降った。20日後には冬営の必要が生じよう」

 ところが、最後となった第29広報には、大陸軍の壊滅、そして全遠征の最悪の悪夢としての悪天候について、悲憤が吐露されていた!

 「11月14日、15日、16日、体温計は、マイナス16~18度まで下がった。道路は氷で覆われていた。騎兵、砲兵隊、輜重隊の馬は毎晩、数百頭ではなく数千頭単位で死んでいった。とくにドイツとフランスの軍馬だ。わが騎兵隊は、馬、大砲、装備、食糧なしで取り残された。我々は、銃砲、弾薬、食糧をほぼすべて放棄、破壊することを余儀なくされた。6日にはまだ秩序だっていた軍隊は、14日には様相が一変していた。こうして騎兵、砲兵、車両をほぼ完全に失った」。公報はこう結んでいる。

ボロジノのナポレオン、ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン画

 フランス軍の騎兵や砲兵を奪い、彼らを完敗させたのは、ロシア軍ではなく、寒さだけであるように読める。だが、フランス軍将兵は、これより前に冬の厳しさに遭ったことはなかったか?もちろん、そんなことはない。

 1795年、フランス軍は、厳冬期にオランダで戦っている。アイラウの戦い(1807年2月7~8日)で露仏両軍が激突したとき、気温は氷点下だったが、フランス軍は吹雪のさなかに凍結した湖や川で巧妙に行動した。だから、彼らにとって冬の厳しさは別に目新しいものではなかった。

アイラウの戦い

 しかし、ナポレオンがつくり出した「致命的な寒さ」の伝説は、フランス国民だけでなく、イギリスのマスコミや国民にもすんなり受け入れられた。英国は依然として、国際舞台におけるロシアの主なライバルの1つだったから、ロシアの将軍や将校の軍事的、戦略的技能を称賛することは彼らの利益にならなかった。

冬将軍はロシアでボニーちゃんを攻撃する

 だから、フランス軍が寒さのせいで負けたと主張するほうがはるかに好都合だったわけだ。そう言えば、ロシアはそんなに強い脅威には思えないから。

 ちなみに、「冬将軍」という言葉は、英国の漫画家ウィリアム・エルメスが、自作の漫画「小さいボニーちゃんのヒゲを剃る冬将軍」で考えついた。

「小さいボニーちゃんのヒゲを剃る冬将軍」

ロシア人の言い分は:本当にそんなに寒かったのか?

デニース・ダヴィドフ

 1812年に、ロシアのパルチザン部隊を率いたデニース・ダヴィドフ中将は、ナポレオン軍が寒さだけで壊滅したという説に猛反対した。このテーマを扱った著作の中で彼は、フランスのジョルジュ・シャンブレ大将の言葉を引用している。シャンブレは砲兵隊を指揮してロシア遠征に参加し、ベレジナ河畔でロシア軍に捕らえられた。

 「モスクワを出てから初雪が降るまでは、フランス軍はずっと、寒くはあったが、乾燥した穏やかな天候の中にあり、(軍にとっては)致命的どころか、むしろ好適な条件だった。10月27日でもマイナス5度、11月9日にはマイナス15度、11月12日、13日はマイナス21度だった」。シャンブレはこう述べている。

 実際のところ、この2日間が最も寒く、その後は寒さが緩み、フランス軍のベレジナ渡河を妨げた。川は凍結しておらず、数千人が水中で死んだ(架橋はされたが、渡れなかった者、戦死、負傷した者、捕虜になった者が多数出た)。

 ジョミニもまた、ナポレオンの主な敗因が冬だという説に真っ向から反対している。

 「ナポレオンのロシア遠征が失敗した主な理由は、冬がいつもより早く到来し、寒さも厳しかったからである――。この意見の信奉者はみな、うんざりするほどそれを繰り返してきた。だが、これは完全な誤りだ。ロシアに毎年訪れる現象の時期について、どうして知らなかったと彼らは思うのだろうか…!あの年、冬の到来はいつもより早くはなかった。それどころか、最初に厳しい寒波が来たのは11月7日で、時期的に例年より遅かった」。ジョミニはこう書いている。

 「このときの寒さは、アイラウの戦いにおける以上ではなかった。しかし、アイラウでは、軍は豊かな土地にあり、その必要を満たすことができたので、動揺しなかった。1812年には逆のことが起きた。食糧その他の必需品の不足で、軍は分散した」

では実際の敗因は?

 我々が既に知っていることだが、ロシア軍総司令官ミハイル・クトゥーゾフは、ナポレオンをモスクワに誘い込み、そこで足踏みさせた。そして、ナポレオン軍を疲弊、消耗させて壊滅させる、この戦略は、実は陸軍大臣(兼第1軍司令官)バルクライ・ド・トーリが考案したことも、我々は承知している。だから、ナポレオンの主な敗因は、天候や寒さとは関係なく、純粋に軍事的なものだった。

 実際、ナポレオンの大軍は、分散し混乱しており、補給路は伸び切っていたから、適切な補給を受けられなかった。さらに、パルチザンも敗北の一因となった。ロシアの農民は、フランス軍将兵に遭遇するや、いつでもどこでも殺害したようだ。

 「近隣の村々の農民は、60人のコサックからなる、ロシア帝国陸軍のテプチャリ・コサック連隊を全滅させた」。ダヴィドフは回想録で振り返る。

 「農民たちは、コサックらのロシア語になまりがあったために、敵と誤認した」。テプチャリ・コサック連隊は、バシキール人からなり、ロシア語があまりうまくなかった。それで農民は彼らを誤って殺したわけで、それほど侵略者への憎しみは大きかった。フランス軍はこんな状況に陥っていたのである。撤退に際しても、ロシア軍に追撃されたから、フランス軍の命運は定まっていた。

冬将軍

 同時代のスコットランドの作家、ウォルター・スコットは、その著書『ナポレオン・ボナパルトの生涯』の中で、次のように疑問を投げかけている。

 「ロシアの寒さと雪がそのように乗り越え難い災厄であり、軍全体を壊滅させるほど強力なものであるならば、どうしてそうした状況が、(ナポレオンのような)勇名を馳せた将軍の計算に組み込まれなかったはずがあろうか。ナポレオン自身がこの大遠征を発案したのである。ロシアでは雪が降らず、11月の寒波が珍しいとでもいうのか?」

 「もちろん、ナポレオンは予見していた」とスコットは結論付ける。「10月には寒波がやって来るだろうことを予想していた。7月には既に、軍に十分な食糧を集めねばならないことも予想していた。だが、しかし、いずれの時も、焦燥感に流されて、予見していた飢餓と寒さを克服するための措置を講じなかった」

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