ソ連軍の一員となった毛沢東の息子:毛岸英は第二次世界大戦をいかに戦ったか

Russia Beyond (Photo: Vladimir Grebnev/Sputnik; Legion Media)
 毛沢東の息子、毛岸英(1922~1950)は、ソ連軍の一員として、ナチス・ドイツそして日本と最前線で戦ったが、1950年、朝鮮戦争のさなかにアメリカ軍の爆撃で戦死した。

 第二次世界大戦中、ソ連の指導者たちの子弟は、一般の将兵とともに戦闘に参加することが珍しくなかった。独裁者ヨシフ・スターリンの長男で、榴弾砲連隊の中隊長だったヤーコフ・ジュガシヴィリは、ドイツ軍の捕虜になり、捕虜収容所で死亡している。ニキータ・フルシチョフの長男レオニードは、爆撃機のパイロットだったが、1943年に出撃したまま帰還せず、行方不明となった。

 世界の共産主義運動の主な指導者の子弟もまたしばしば、ソ連軍とともに独ソ戦を戦った。1941年冬のモスクワ近郊の戦いで、ユーゴスラビア共産党の指導者ヨシップ・ブロズ・チトーの息子、ジャルコ・ブロズは、片手を失った。

 スペインの有名な共産主義者ドローレス・イバルリ・ゴメスの息子ルベンは、機関銃中隊を率い、スターリングラードの戦いで戦死している。

毛沢東と毛岸英

 共産主義運動の重鎮、中国共産党を率いた毛沢東の息子、毛岸英もまた、ソ連軍で勤務した。彼は、ヨーロッパでドイツ軍と戦っただけでなく、ソ連の対日参戦後、極東での日本との戦いにも参加した。

 

新しい家

楊開慧と息子の毛岸英と毛岸青

 未来の「偉大なる毛主席」の長男、毛岸英の幼年時代は、中国共産党にとって困難な時期に当たっていた。1920年代後半、彼らは政権党の国民党により執拗に圧迫されていた。

 1930年、毛岸英の母親、楊開慧が処刑され、父の毛沢東ははるか彼方にあった。そのため、8歳の少年は上海で浮浪児になる羽目となった。1936年になってようやく、毛沢東は息子を見つけてソ連に送ることができた。

毛沢東と毛岸英

 「マオ同志」は、ソ連で高く評価され、リスペクトされていたので、彼の息子にも非常な配慮が払われた。毛岸英は、全国的に有名だったイワノヴォ国際孤児院に送られた。これは、ファシズムとの戦いで亡くなった、外国の共産主義者の子供たちを収容した施設だ。

 

前線へ

毛岸英

 独ソ戦が勃発する頃までに、セルゲイ・マエフ(毛岸英のロシア名)は、すでにロシア語をよく習得していた。彼は、出征して前線で戦うことを切望し、1942年にスターリンに手紙を送り、ソ連軍に加わる許可を求めた。

 「親愛なる同志スターリン!私は中国の青年です。あなたが導いているソビエト連邦で私は、5年間勉強させていただきました。私は、中国と同じくソ連を愛しています。ドイツのファシストがあなたの国を蹂躙しているのを座視できません。殺害された何百万人ものソビエト市民のために復讐したいのです。私は最前線へ赴く覚悟を固めています。どうか私の願いをお許しください」。毛岸英はこう書いた

 毛岸英は、返事は受け取らなかったが、すぐにコミンテルンの執行委員会書記、ドミトリー・マヌイリスキーが、「諸民族の父」に代わって孤児院にやって来た。彼は毛岸英と会って話し、最後に「父は英雄だが、息子も立派だ」と言った。セルゲイ・マエフこと毛岸英は、下士官の養成コースに送られた。

 その後しばらく、モスクワのレーニン記念軍事政治アカデミーとフルンゼ記念軍事アカデミーで学んだあと、毛岸英は1944年にようやく(父、毛沢東の承認を得て)最前線に赴いた。そこでは、砲兵中隊の政治将校(政治担当代理)として、ポーランドとドイツで戦った。同僚たちは、彼をブリヤート人だと思い、その出自は知らなかった。

毛岸英(上に左から2番目)

 毛岸英は、いわば不俱戴天の仇だった日本との戦いにも参加した。1945年8月のソ連対日参戦で、彼は、察哈爾省および大興安嶺山脈での戦闘で軍功を上げ、赤星勲章と軍事功労メダルを授与された。スターリン自身も、中国の同盟者の息子に、自分の名を刻んだピストルを贈った。

 毛岸英は、こうしてドイツと日本と戦い、1946年には故郷の中国に戻り、第二次国共内戦をも無事にくぐり抜けた。しかし、運命は彼に平和な生活を享受する機会は与えなかった。

趙南起、毛岸英の墓

 1950年に、彼は中国人民志願軍とともに朝鮮半島へ行き、戦争の最初期に米軍のナパーム弾で殺害された。

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