「キャタピラが雪を跳ね上げる。私たちの士気は激しい。もしこれが意味を持っていたなら、我々は万歳を叫んだだろう。我々は機関銃が持ちこたえる限り、眼前に現れるあらゆる標的に発砲した。ロシア軍の歩兵は散り散りになった。彼らは我々を狂人だと思っただろう」――スターリングラードで包囲されたフリードリヒ・パウルスの第6軍を解放するべく実行された冬の嵐作戦の始まりを、ホルスト・シャイベルト中尉はこう回想している。
ソ連のウラヌス作戦の結果、1942年11月23日、ドイツ軍の30万人の集団が包囲され、第三帝国指導部に衝撃を与えた。とはいえ、彼らは大惨事は避けられると考えていた。ドイツ軍には、同年初め、デミャンスク郊外で包囲された10万人の第2軍団に空から物資を補給し、数ヶ月後に包囲を破ることに成功するという経験があった。ヒトラーは同じことが繰り返されることを期待し、空から補給される食糧と弾薬を頼りにスターリングラードを死守するようパウルスに命じた。街への回廊を通す任務は、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン率いる創設間もないドン軍集団に託された。この軍集団は北コーカサスと西ヨーロッパから配置替えされた師団で補強されていた。
包囲された第6軍に最も近い(距離わずか40キロメートル)ドイツ軍の陣地はチル川の辺りにあった。ソビエト軍指導部はまさにここで包囲解除の試みが実行されると考え、この地域を特別視して注意を強めていった。そこでマンシュタインは主要な攻撃の目標を、より防御の甘い南方の町コテリニコヴォ付近に移した。そこからパウルスの軍までの距離は120キロメートル以上であった。12月12日、ドイツのホト軍集団(ヘルマン・ホト上級大将に因む)が冬の嵐作戦の一環で、ドイツ側が数で勝る赤軍の第302歩兵師団を突如攻撃・粉砕し、スターリングラード方面に向かって猛攻を繰り広げ始めた。
失敗に気が付いたソ連指導部は、戦闘地域に向けてロディオン・マリノフスキー中将の第2親衛軍を送った。その到着まで、現場のソビエト軍部隊は敵を押しとどめる必要があった。ヴェルフニェクムスキー村付近で激しい戦闘が展開した。ソビエト軍はおよそ5日間ドイツ軍に抵抗し、値千金の時間を稼いだ。ここで特に優れた戦いぶりを示した第4機械化軍団は、早くも12月18日に「親衛機械化軍団」に改称された。
「戦車は激しい砲撃を始め、ヒトラー軍の歩兵が機関銃を連射していた。戦闘は我々の防衛線の奥深くまで食い込んで行われていた」と第20独立殲滅対戦車砲兵旅団の政治部長ウラジーミル・ブブノフは隣村のグロモスラフカ付近での戦闘を回想している。「対戦車小銃兵は弾を撃ち尽くすまで、手榴弾を投げ尽くすまで戦った。敵の戦車と装甲車を攻撃して炎上させ、敵の歩兵を攻撃した。しかし敵も押し寄せてきて、戦車と装甲車が我々の塹壕に近付き、塹壕を踏み均した。しかし戦車が塹壕を通過すると、我々の戦士は、兵卒も軍曹も将校も皆立ち上がり、装甲車両めがけて後ろから発砲するのだった」。
ドイツ軍は大損害を被りながらもどうにか前進していた。「我々自慢の奇襲は見る影もなかった」と第17装甲師団の指揮官フリードリーン・フォン・ゼンガー・ウント・エッターリン少将は語っている。冬の嵐作戦でドイツ軍がつかんだ最後の成功は、12月19日にスターリングラードから48キロメートル離れたムィシコフカ川に達したことだった。ここで彼らはついに到着した新鮮なソビエト第2親衛軍と衝突した。
マンシュタインとパウルスの参謀部の間で活発な話し合いが始まり、第6軍がホト軍集団の方に向かって突破するという「雷鳴作戦」を実行に移す必要性が検討された。しかし包囲された軍の司令官は結局命令を出さなかった。その主な理由は燃料の不足で、百台の戦車が移動できるのは30キロメートルが限界だった。包囲解放軍までは50キロメートル近くあった。将軍は、装甲車両を捨ててのそのそ歩く兵士の集団が凍てつく草原の上で赤軍の餌食となって壊滅することを恐れていたのだ。
「どうにか方陣隊形を作って全方位の戦闘を行いながら第4装甲軍の方へ進まなければならなかった」とエーリッヒ・フォン・マンシュタインは回想録『失われた勝利』に綴っている。「しかも南西への進撃が頓挫したり、敵が後衛や側面の守りを粉砕したりする危険性に常に晒されていた。そしてこの課題をこなさなければならないのは、食糧の不足で極度に疲弊し、移動能力がほとんど失われた軍だった。しかし自由を奪還し、死や捕縛から逃れられるという希望が、軍に不可能を可能にする力を与えるかもしれなかった」。
包囲された軍を救出するというドイツ軍の希望を完全に葬ったのが、12月16日に始まったソビエト軍の小土星作戦だった。スターリングラードの南でソビエト軍がホト軍集団の戦車の攻撃に抵抗していた一方、街の北西、ドン川が大きく曲がる辺りでは、彼らの仲間がイタリア軍とルーマニア軍の師団を打ち砕き、敵の戦線を突破して340キロメートル奥まで進み、ドン軍集団の後方に達した。12月24日に反撃に転じたマリノフスキーの第2親衛軍に追われ、ドイツ軍は後退を始めた。
「部隊は元気の出るような報せに飢えていた」と第6軍偵察部の将校ヨアヒム・ヴィーダーは回想している。「前線は最後の力を振り絞って持ちこたえており、クリスマスの前夜である今、ヒトラーが約束を守って助け出してくれることを願っていた。『マンシュタインが来る』という言葉を皆が口にしていた。しかし皆がまだ待ち望み、信じ、期待していたこの時、第6軍を包囲から解放することを任務として進撃していた兵団は動きを止められ、その後目的を達することなくロシア軍に追い払われたのだった」。
「冬の嵐」に耐えて「雷鳴」を聞かなかったソビエト軍司令部は、ドイツ軍の攻撃によって中断された作戦の計画を練る作業に戻った。パウルスの軍を分解して完全に殲滅する作戦だ。この作戦は1943年の初めに実行され、成功した。