ファクトチェック「最近100年で初めてのロイヤルウエディング?」:そんなものはなかった理由

Legion Media
 2021年10月1日、ゲオルギー・ミハイロビッチ・ロマノフさん(40)とイタリア人のレベッカ・ヴィルジニア・ベッタリーニさん(39)が、サンクトペテルブルクの聖イサアク大聖堂で結婚した。ロシアと外国のメディア各社は、「世紀のロイヤルウエディング」を速報した――「ロシア皇帝」が結婚するなどと。しかし実はこれが、「ロシア帝室の継嗣」ではなく、単なる2人の市民の結婚式だった理由を説明しよう。

 「(ロシアの)皇室は、2007年にその存在を終えた。この年、皇室ロマノフ家の最後の代表者がモンテビデオで亡くなった。それは、ロシア皇室の血を引くエカテリーナ・ヨアーノヴナ公女で、彼女は、異論の余地のない、皇室の一員の地位を有していた。彼女以後、皇室の人間はいない」。インタビューでこう説明するのは、エフゲニー・プチェロフ歴史学准博士。彼は、ロマノフ王朝史の、代表的な専門家の一人だ。

 しかし今なお、「皇室ロマノフ家の一員」と呼ばれる権利を主張するばかりか、ロシアの君主制の復活を夢見る人々さえいる。10月1日にサンクトペテルブルクの聖イサアク大聖堂で行われた結婚式は、「ロシア帝位請求者の結婚式」としてロシアと欧米のメディアで取り上げられたが、これは、まさに彼らの努力によるものだった。

ロシアに帝位がもう存在しないわけ

 「私、ロシア、国、とても好きです」«Я очень люблю Россия страна» と、レベッカ・ベッタリーニさんは、ゲオルギー・ロマノフさんと婚約式を行った後で、インタビューでこう述べた。場所は、ロマノフ王朝ゆかりの古都コストロマのイパチェフスキー修道院だ。「ロシア、もっとたくさん訪れることを期待します」«Надеемся, чтобы посетить побольше Россия вместе»。ゲオルギーさんは付け加えた。

 二人のロシア語がブロークンなのは、驚くには当たらない。この夫妻はいずれも、ロシア語を話さない家庭で育ったのだから。にもかかわらず、夫妻のロシア訪問中、ロシアと外国メディアの多くの記者は、二人に「陛下」「殿下」の称号を付け、ゲオルギーさんは「大公」「継嗣」と呼ばれた。

 ゲオルギーさんとその母親マリア・ウラジーミロヴナさんは、当時のボリス・エリツィン大統領の決定により、1991年にロシア国籍を取得した。ロシアのパスポートを受け取る前、ゲオルギーさんの名字はホーエンツォレルンだった。彼は、プロイセン王朝の子孫であり、フランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセンの息子だからだ。

 ゲオルギーさんの曽祖父は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世で、かつて第一次世界大戦でロシア帝国と戦った。また、ゲオルギーさんの父方の祖父、カール・フランツ・フォン・プロイセンは、大祖国戦争(独ソ戦)中に、ドイツ国防軍に勤務し、鉄十字章を授与されている。

カール・フランツ・フォン・プロイセン(左)

 アレクサンドル・ザカトフさんは、ロシア国営テレビ「ロシア24」へのインタビューで次のように述べている。彼は、非営利団体「ロシア帝室」の事務局長。これは、皇帝ニコライ2世の従弟キリル・ウラジーミロヴィチ大公の子孫たちの組織で、ゲオルギーさんとその母親が所属している。

 「継承は連綿と続いている。それは、権力を主張するという意味ではなく、人々が君主制を復活させたい場合に、伝統と歴史的なやり方をすべて踏まえてそれを行うことができるという意味で、続いているのだ」。しかし、ここで最大の問題となるのがまさにその伝統なのだ。

 ロマノフ王朝を研究する歴史家、イワン・マトヴェーエフさんは、帝位請求者も帝位そのものも既にないと指摘する。

 「それはすべてもう歴史だ。なるほど、我々は今もそれを研究し、分析しなければならないが、もう過去の現象だ」

 実際、ロシア帝国の1797年の帝位継承法も、他の関連法も、100年以上にわたって法的効力を持っていない。

 2月革命後の1917年3月2日、皇帝ニコライ2世は退位し、弟ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に譲位しようとしたが、翌日、大公は周囲と相談した後、即位を拒否する旨の文書に署名している。

 この文書によると、ロマノフ王朝は、憲法制定議会が開催され、それが君主制の回復を承認した場合にのみ、回復され得た。1917年3月4日、ロシアの権力は臨時政府に移ったが、憲法制定議会は開かれず、その後さらに10月革命が起こり、ウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキが権力を掌握。したがって、「帝位」の概念は、1917年3月3日以来ロシアには存在していない。

偽の王冠 

 こういう状況なのに、なぜ、ゲオルギーさんは大公を名乗り、帝位請求者をもって任じるのか?ちなみに、彼の母親マリア・ウラジーミロヴナさんは、ニコライ2世の従弟であるキリル・ウラジーミロヴィチ大公の孫娘だが、このキリル大公は、1917年2月に革命を支持している。すなわち、制服に革命支持を表す赤色のリボンを付け、麾下の近衛連隊をドゥーマ(国会)のミハイル・ロジャンコ議長に提供した。

キリル・ウラジーミロヴィチ大公、1904年

  その後、近衛連隊の水兵たちは、ニコライ2世に忠誠を誓う軍隊が首都サンクトペテルブルクに着くのを防ぐために、ツァルスコエ・セロー駅とニコラエフスキー駅を占領した。これにより、ロシアの帝政崩壊が間接的に加速させられた。

 ロシアの帝政崩壊から7年以上経った1924年8月31日、キリル大公はロシア皇帝、キリル1世を自称し、宣言した。これには、当時のロマノフ朝の子孫の大多数から、反対の声があがった。 

 キリル大公の息子、ウラジーミル・キリロヴィチは、皇帝を宣言しなかったものの、「ロシア大公」の称号を用い、ロシア帝室家長となった。

 1948年8月、ウラジーミル・キリロヴィチは、亡命ロシア人貴族、レオニーダ・バグラチオン・ムフランスカヤと結婚した。彼女はグルジア公爵家の出だが、同家は19世紀初めにロマノフ家の臣下となっていた。したがって、ロマノフ家の家内法によれば、貴賤結婚(身分相応な結婚)に当たり、生まれた子供に帝位請求権はないとして、ロマノフ家内部で意見の対立が生じた。

 この結婚で生まれた娘がマリア・ウラジーミロヴナで、彼女は、1976年にマドリードで、フランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセンと結婚。1981年に二人の息子として、くだんのゲオルギーさんが生まれたわけだ。

マリア・ウラジーミロヴナとフランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセンの結婚式にて、1976年

 1989年、ウラジーミル・キリロヴィチは、一人娘のマリアさんをロシア帝位請求者と宣言した。彼は1992年に亡くなるが、父の死後にマリアさんは、「ロシア帝位請求に関する宣言」を出し、息子ゲオルギーさんを「ロシア帝室ロマノフ家継嗣」として発表する。

 マリア・ウラジーミロヴナさんのこうした行為は、ロシア貴族の末裔たちをしばしば憤慨させた。たとえば、有名な伯爵家の子孫、ピョートル・ペトローヴィチ・シェレメテフさんは、「ロシア24」へのインタビューで、こう率直に述べている。

 「彼女は夕べの催しなどに、頭に『王冠』をかぶって出かけることがある!すごく見苦しいし、下品だ!偽の王冠をかぶって舞踏会に行くなんて?これは詐欺だ」 

聖イサアク大聖堂の結婚式に参加したマリア・ウラジーミロヴナ(右)

“世紀の結婚”

 最初に書いたように、ゲオルギー・ロマノフさんとレベッカ・ベッタリーニさんの結婚式は、2021年10月1日にサンクトペテルブルクの聖イサアク大聖堂で行われたが、そのために特別な許可をとる必要はなかった。ここで式を挙げるには、2万ルーブル(約3万円)以上払えばよかった。  

偽の勲章をつけている新郎新婦

 ちなみに、ロマノフ家人々が聖イサアク大聖堂で結婚したことはない。もっとも、この場所にはかつて、ピョートル大帝(1世)がエカテリーナ1世と結婚した「ダルマチアの聖イサアク教会」があったが、それは大聖堂の建設前の1712年のことだ。その後、皇室の結婚式は冬宮殿の大教会で行われている。

 ゲオルギーさんとレベッカさんの結婚式に関する記事には、間違いがたくさんある。まず、「ロマノフ家の子孫が『母国』で120年ぶりに結婚した」という文言だ。ニューヨーク・タイムズ紙のようなメディアでさえ、勇み足を免れなかった。ロシアが二人の「母国」でないことは既に触れた通りだ。 

 おまけに、歴史家のイワン・マトヴェーエフさんが指摘するように、1917年の2月革命から、1920年7月に皇室の最後のメンバーが亡命する期間だけをとっても、ロシアで6つの結婚式がとり行われている。ソ連崩壊後についても、ゲオルギーさんとレベッカさんは、ロシアで結婚した最初のロマノフだったわけではない。

 最初は、ドミトリー・ロマノヴィチ公(1926~2016)だ。彼は、1993年7月28日にコストロマでドリット・レヴェントロフ伯爵夫人(1942年生まれ)と結婚した。ところで、皇帝ニコライ1世の血筋の最後の人である、このドミトリー・ロマノヴィチ自身が、君主制の復活には反対しており、ロシアには「民主的に選出された大統領があるべきだ」と考えていた。

  ちなみに、歴史家のエフゲニー・プチェロフさんが先ほど触れていた、帝位請求権を持つ最後の女性、エカテリーナ・ヨアーノヴナ公女は、1937年にイタリアのノビレ・ルッジェーロ・ファラチェ・ディ・ヴィラフォレスタ侯爵と結婚する前に、帝位請求権の放棄に署名している。

 10月1日に行われたゲオルギーさんとレベッカさんの結婚式について、歴史家のイワン・マトヴェーエフさんのメモには、このイベントの概略が記されているが、それを見れば、わざわざコメントする必要もないことが分かる。

 結婚式には、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ベグロフ知事も、ロシア外務省のマリア・ザハロワ報道官も出席しなかった。ウラジーミル・プーチン大統領からの祝辞もなかった。式典を中継したロシアのテレビ局は皆無だ。正教を標榜する愛国的なテレビ局「ツァーリグラード」でさえも放映しなかった。ちなみに、その創設者である実業家コンスタンチン・マロフェーエフさんは、ニコライ2世の従弟であるキリル・ウラジーミロヴィチ大公の一門に好意を寄せ、彼らの事業を積極的に支援しているのだが。

 花婿の父、フランツ・ヴィルヘルムさんが結婚式に立ち会わなかったことも示唆的だ。ロシア正教会の400人以上の高位聖職者のうち、結婚式に出席したのは7人のみ。 

 さらに重要なのは、結婚式では、二人の名前は、通常の式の通りに、「神の僕ゲオルギーと神の僕ヴィクトリア」と呼ばれた。つまり、称号なしで呼ばれたことで、人々に次のことがはっきり示されたわけだ。ロシア正教会は、皇帝ニコライ2世とその家族が殉教者として列聖された事実を極めて重んじており、このたび結婚した二人については、存在しない称号など口にできない、と。

 結婚式では、説明不能なできごともいくつかあった。なかでも奇妙なのは、花嫁のウェディングドレスに描かれていたのが…「双頭の鷲」だったことだ。「双頭の鷲」は、式典中に聖イサアク大聖堂の床の上を引きずられた。これは、ロシア帝国とロマノフ王朝の尊厳と記憶に対する侮辱だ。

 式典に続き、ビュッフェのテーブルでは、新郎新婦がカメラの前で景気よくウォッカを飲んでみせた。だが、ロシア史上、皇室の結婚式において、こんなことはかつてなかったし、あり得ないことだ。女性がウォッカを飲んだりすれば、庶民出身であることがすぐにばれてしまうし、大公ならば、なるほど、男同士の集まりで、それも式のすぐ後でなければ、ウォッカを飲むことはあるが(それでも結婚当日はあり得ない)。

結婚式後、ウォッカを飲んでいる新郎新婦

 些細なことのようだが、式の参加者と主催者が帝政ロシアの伝統についてほとんど何も知らず、ただ「ロシア人っぽく見せたい」と強く願った結果、勇み足を演じたことが分かる。 

 結婚式の後、聖イサアク大聖堂を後にした夫妻は、儀仗兵がサーベルでつくるアーチで迎えられた。このいわゆる「セイバー・アーチ」は、軍人が結婚するときにイギリスとアメリカの軍隊で行われている独特の慣習だ。

 ゲオルギーさんは軍に勤務したことはなく、当然、軍の階級もない。サンクトペテルブルクのニュースサイト「マッシュ・オン・モイカ」によると、ロシア連邦軍事検察庁は現在、軍人たちを儀仗兵にして「サーベルアーチ」をやらせたことが合法か否かを調べている。その兵士たちは、「ほとんど偶然に、その場で参加への同意をとりつけられた」という。

 という次第で、この式典は実は、茶番劇であり、結婚式と君主制の伝統の断片を寄せ集めたものにすぎない。そう言わざるを得ないだろう。伝統の継承者を自認する結婚式の参加者たちさえ、伝統を忘れ、歪めていた…。

 「最も悲しむべきことは、これらの人々は、自分で自分のやっていることが分かっていないこと。自分たちの言動で周囲を笑わせるだけであり、そのせいで、ロマノフ家とロシアの歴史をかえって卑俗に見せていることだ。彼らはいったい誰のためにあくせくしているのか」。歴史家のエフゲニー・プチェロフさんは嘆く。

*筆者は、歴史学准博士。学位は、ロシア科学アカデミー・ロシア史研究所で2010年に取得。

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