古代ロシアの異教時代の葬儀はどんなものだったか:数千年前の墳墓から鳥葬まで多種多様

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 古来より、現在のロシアの領域に住んださまざまな人々が、多種多様な埋葬儀式を行ってきた。スラヴのクルガン(墳丘)、アルタイの地下墳墓、シベリアの種族の地上埋葬、その他いろいろあった。

 キリスト教(正教)は、10~11世紀にロシアに導入された。それは、とりもなおさず、現代ロシアの領域に住んでいた多種多様な人々が行っていた異教の伝統を、変化させるか消滅させることを意味した。ロシア国家の発展にともない、キリスト教を奉じるロシア人は、東方のウラル、さらにシベリアを征服し領有していった。

地上埋葬

 地上埋葬は、キリスト教導入のずっと前に、古代ロシアで行われていたようだ。ロシア民話には、そうした儀式が反映し保たれてきた。たとえば、邪悪な魔女「ヤガーばあさん」は、森の奥深くの、鶏の足の上に立つ小屋に住んでいる。この小屋には窓や扉がない。そして、「ヤガーばあさん」の足は、剝き出しの骨だ。

 おそらく、この物語は、地上埋葬、すなわち木棺に納められた死体が木製の杭の上に置かれていたさまを反映している。

 モクシャ人は、モルドヴィン人(主にロシアのモルドヴィア共和国に住むヴォルガ・フィン系民族)の一派だが、自分たちのシャーマンをこのように埋葬したことが知られている。その後、ロシアのキリスト教化の間に、こういう墓のほとんどが破壊されたが、地上埋葬の習慣は、何世紀もシベリアで行われ続けた。ロシアのシベリア征服が長い年月を要したためだ。

 ネネツ人はシベリア最大の民族集団で、彼らの来世観によると、死後の人間の魂は、生前の生き方を継続する。だから、ネネツ人にとっては、死者を速やかに葬ることがとても大切だった。死の翌日に早くも、鹿を使って遺体を墓地に運んだ。

 ネネツ人の墓地はふつう、丘の上にあった。遺体がそこに運ばれると、死後の世界で死者に必要となるかもしれない道具や武器などといっしょに、木棺に納められた。それらはすべて、あの世でちゃんと使えるように、予め曲げられたり壊されたりしていた。 

  遺体を運んだ鹿は、埋葬地で生贄にされた。 しかし、ネネツ人は、死者を文字通り地中に埋めたわけではなかったので、厳密な意味での「埋葬」ではなかった。北方の凍てついた土地では、深い穴を掘れなかったから、棺は柴で覆われ、その場に残された。村人たちは墓を保存、維持せず、遺体は自然に崩壊するにまかされた。乳児や子供が亡くなった場合は、その遺体は、袋に入れられて、木の枝に吊るされた。一種の「鳥葬」だ。

 バイカル沿岸とその周辺に住むブリヤート人も、地上埋葬を行った。彼らは死んだ近親者にいちばん良い服を着せて、武器、道具、馬具とともに地面に安置し、土、石、芝などで覆った。その際、彼らは、野生動物がいるような場所に遺体を置いた――死者の魂が速やかに祖先のもとへ行けるように。

アルタイの墓の家 

 1990年代、ロシアのアルタイ共和国のウコク高原で、ロシアの考古学者によって広大な埋葬地が発見された。その墳墓――ロシアでは「クルガン」と呼ばれる――は、いわゆるパジリク文化に属している。これは、紀元前5〜4世紀にこの領域に住んでいた、古代スキタイ系の文化だ。

 最も注目すべき発見は、入れ墨されたシャーマンと思われる女性、いわゆる「ウコクの王女」(シベリアの氷の乙女)だ。6頭の生贄の馬と多数の宝物とともに葬られていた。これは、多数の墳墓群の1つで、遺体は、驚くほど良好に保存されていた。埋葬地に水が氾濫し、その後凍結したため、墓の内部が氷漬けになり、よく保たれたわけだ。

*もっと読む:シベリアの氷の乙女の謎 

 パジリク文化のクルガン(墳墓)は、明らかに死者のための家だった。丸太小屋が地下に造られ、その内部には、遺体を安置する個別の部屋があった。遺体は、盛装のうえ丸太の棺に納められ、棺の周りには、来世に必要な物を置いた――馬、馬具、絨毯、武器、さらには荷車や戦車も。もちろん、富裕な貴族のパジリク人だけが、このような高価で手の込んだやり方で葬られた。 

スラヴのクルガン(墳墓)

 クルガンは、墓の上に築かれた古墳の一種だ。大抵の場合、クルガンは、富裕な貴族(戦士、公など)のために建設された。ふつうは、墓の上に、小さな盛り上がった丘を造った。クルガンは、紀元前3千年紀に、中央アジアとヨーロッパの広い地域に建設されている。

 ロシア中部にはまだ、スラヴのクルガンが多数残っているが、それらは今ではみな、単なる丘になっている。というのは、その存在の長い歴史の中で、それと見て分かるクルガンはすべて、宝探しで荒らされてきたからだ。それでも、我々は、クルガンの埋葬がどのように行われたかを知っている。

 クルガンは、土の塊をまとめ、土台を石や丸太で囲むことで、速やかに構築できる。故人の遺体は盛装させられて荼毘に付され、葬儀が執り行われた。その後、遺体は、クルガンの内部に埋葬され、土と石で覆われた。遺体に加えて、武器、鎧、家庭用品、お金、その他の副葬品が添えられることがあった。なお、スラヴのクルガンの上には、墓石その他の標は置かれていなかった。

ドルメン(支石墓)

 古代の巨石墓「ドルメン」は非常に古く、それらが由来する文化すら分からない。ドルメンは、紀元前3000~2000年にまで遡る。ロシアでは、そのほとんどが北カフカスにある。

 砂岩と石灰岩から造られたドルメンには、通常は4つの壁と1つの屋根がある。壁の1つに穴が開けられており、おそらく閉じた石室の中に遺体を運び込むためだった。その後で、穴を閉じるために石の遮蔽物が用いられた。ところで、ドルメンもまた、土のクルガンで上を覆われていた可能性がある。

 ドルメンは極めて古いので、内部にクルガンや遺体の痕跡は見つかっていない。しかし、ドルメンが墓として使用されたことは確かだ。それらは天文学に基づく方位をもっている。明らかに家族の地下墳墓として使われたものもあれば、聖域として使用されたものもある。

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