ニコライ2世とその妻子の非業の死については、多くの人に知られている。皇帝一家は、ウラルのエカテリンブルク市に送られて、閉じ込められた家の地下室で、情け容赦なく撃たれて死んだ。
皇帝一家は、1990年代に殉教者と認められ、列聖された。今では国は、一家の記憶を保存しようと努めており、例えば、「陛下、我々をお許しください」などと書かれた看板が、全国あちこちにある。
しかし、皇室の他の人々も、被害に遭ったり殺されたりした――ボリシェヴィキは、ロマノフ家の大公の多くを殺している。なかでもとりわけ残忍でありながら、ほとんど忘れられていた悲劇が、やはりエカテリンブルクの近くで起きた。
ロシア大公妃エリザヴェータ・フョードロヴナとはどんな人か?
ロシア大公妃エリザヴェータ・フョードロヴナは、ヘッセン大公国の皇女エリーザベト・アレクサンドラ・ルイーゼ・アリーツェ・ヘッセン=ダルムシュタットとして、1864年に生まれた。ニコライ2世の皇后、アレクサンドラ・フョードロヴナ(ヴィクトリエ・アリックス・ヘレーネ・ルイーゼ・ベアトリーツェ)の、8歳年長の姉だ。
姉妹の愛称は、ぞれぞれエラとアリックス。二人は、子供のころからとても信心深く、ロシア皇室の一員になると、ロシア正教に改宗し、慈善活動を行い始めた。
エラは、ニコライ2世の叔父であるセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公と結婚した。彼は非常に影響力のある人物で、モスクワ総督だった。夫妻はともに聖地巡礼を行い、初めは夫、その後は妻が、帝国正教パレスチナ協会の総裁を長年務めた。協会は、人道的活動を組織していた。
徳高い生き方にもかかわらず、エラの運命は不幸だった。彼女には、大公の跡継ぎが生まれず、1905年には、夫のセルゲイ大公がテロリストの投じた爆弾で暗殺された。これが一つの導火線となり、第一次革命が国中に波及。大公は、憲法制定にも、専制を緩める他のいかなる試みにも断固反対だった。
エラは、夫の死を嘆き悲しんだが、正教の慈悲の神髄とも言うべき行為に出た。彼女は、収監されていた夫の殺害者を訪ね、さらに彼を許すよう皇帝に嘆願しさえしたが、無駄であった。
その後、エラは、モスクワにマルファ・マリア女子修道院を建立し、貧しい人々に医療、避難所、食事を提供した。
エラの死
1918年春、ボリシェヴィキはエラを捕え、皇室の多くの人々と同じく、ウラルに送った。ニコライ2世とその家族が射殺された翌日、すなわち1918年7月18日、エラは、マルファ・マリア女子修道院の庵室のお付き、および5人の大公とともに、エカテリンブルク近くのアラパエフスク市の廃坑に投げ込まれた。犠牲者のある者は前もって射殺され、他の者は生きたまま投げ込まれたうえ、手榴弾を投げつけられた。彼らはみな、負傷と飢餓のために長く苦しみつつ死んでいった。地元民が廃坑から数日間、祈りの声を聞いたという言い伝えもある。
当時、ロシア国内では内戦が行われていたが、秋までにボリシェヴィキは地域から撤退し、この都市は君主主義者の白軍によって占領された。彼らは、遺体を廃坑から取り出して、教会に葬った。エラの棺は、再び退却した白軍と共にしばらく移動し、最終的にエルサレムに運ばれた。エラの亡骸は、故人の遺志によりここで埋葬された。
エラの彫像がウェストミンスター寺院に現れた理由
1990年代に、正教会は、ロシア大公妃エリザヴェータ・フョードロヴナとすべての「アラパエフスクの殉教者」を列聖し、彼らの終焉の地に、新たな殉教者と懺悔者の名において修道院が建立された。
ロシアのいくつかの聖堂および宝座は、エリザヴェータ・フョードロヴナの名を冠している。マルファ・マリア女子修道院は、今も活動しており、その慈悲深い創建者の記念碑が建てられている。
海外のロシア正教会は、既に1980年代にエラを列聖していた。そして1998年、ウェストミンスター寺院の西壁に、20世紀のすべての「新しい」偉大な殉教者を記念して、彫像を設置することが決められた。例えば、エラは、マーティン・ルーサー・キングの隣に立っている。
ただし、ロンドン中心部にエラの像があることは、別の理由により、驚くには当たらないことに注意してほしい。彼女は、イギリス王室の近親者だった。
エラと妹アリックス(皇后)は、ヴィクトリア女王の孫娘だ。女王の娘アリスが姉妹の母親だが、アリスはジフテリアで早世。父親のヘッセン大公ルートヴィヒ4世は、愛人と貴賤結婚する。そのため、エラとアリックスは、祖母のヴィクトリア女王に幼い頃から育てられ、オズボーン・ハウスに住んでいた。