87人の子の父親になったロシアの農民

ロシア農民の家族、20世記初頭。農民の家族は多くの子供を抱えるのが一般的だった。

ロシア農民の家族、20世記初頭。農民の家族は多くの子供を抱えるのが一般的だった。

Unknown author/MAMM/MDF
 18世紀、あるロシアの農民が2つの世界記録を打ち立てた。1つは、2人の妻との間にもうけた子どもの数、そしてもう1つは生まれた双子の数である。

2度の結婚と35度の出産

 フョードル・ワシリエフは1707年、ニコロ・シャルトムスキー修道院(モスクワから321キロ離れたイワノヴォ州)の農奴の子どもとして生まれた。ワシリエフは、修道院近くのヴヴェジェニエ村で幼年時代を送ったが、その後、国家に隷属する農奴という身分に移され、同じイワノヴォ州のクフリノ村で暮らすようになった。 

 ワシリエフが最初の結婚をしたのは18歳のとき。1人目の妻の名は正確には分からないが、当時の記録には、ワレンチナまたはフェオドラではないかと記されている。2人は40年間、連れ添った。そして1725年から1765年にかけて、フェオドラは27回出産し、69人の子どもが誕生した。双子16組、三つ子7組、そして四つ子が4組である。2人が乳児期に死亡したが、あとは全員、無事に成人したという。

 1765年に妻を亡くした後、フョードルは58歳で2度目の結婚をする。お相手はアンナという女性で、彼女は18人の子どもを産んだ。双子6組と三つ子が2組だった。

 夫婦は一部の子どもを、子どものいない、あるいは子どもの少ない夫婦に養子に出した。またイギリスの医学専門誌ランセットは、1878年に掲載した記事で、子どもたちの中には、国家からの援助を受けて、モスクワに移り住んだ者もいたと伝えている。またロシアのインターネットサイト「キリリツァ・ルー」によれば、専門家が試算したところ、ワシリエフの子孫は地球上に8万人いる計算になる。

 

名声、そして女帝との謁見

エカテリーナ2世

 1782年、ウラジーミルの府主教がこの夫婦のことを知り、すぐにエカテリーナ2世に報告を行った。

 まもなくして、夫婦は女帝と謁見する機会を与えられ、エカテリーナ2世からロシア帝国の人口増かい貢献したとして賞を受け取る。

 ペテルブルクにいたイギリスのある商人も、子だくさんのワシリエフ夫妻がエカテリーナ女帝と謁見したと知り、イギリスの記者らにその話を伝えた。そこで、1783年、ワシリエフ夫妻の話はイギリスの雑誌「ジェントルマンズ・マガジン」にも掲載されることとなった。 

 エカテリーナ2世は影響力のある西側の人物との書簡のやり取りの中でも、ワシリエフ夫妻のことを好んで書いた。

 またロシアの歴史研究家イワン・ボルチンも、1788年、フランスの自然科学者で植物学者のジョルジュ・ルイ・ルクレールへの手紙の中で、この夫妻のことについて綴った。当時、ジョルジュ・ルイ・ルクレールはロシア民族は多産ではないと考えていた。

研究者の見解、そして批判

 サイト「キリリツァ・ルー」によれば、遺伝学研究者らは、「多産」の遺伝子はフョードル・ワシリエフのものであると仮定しているという。

 一方、ジョンズ・ホプキンス大学の生殖学研究所を率いるジェイムス・シーガース所長は、BBCからのインタビューのなかで、「もはやファンタジーの領域です。69人ですよ?あり得ません!」と述べている

 さらにアメリカ、ノースイースタン大学の研究者、ジョナサン・ティリー氏も、受胎回数自体に疑問を呈し、当時は1人の子どもを出産するのも困難な時代だったと指摘する。

 「双子ばかり16組?ちょっと驚きですね」とティリー氏

 しかも多くの研究者らは、18世紀の医学のレベルを考えれば、多くの子どもたちが出産の際に命を落としてしまったはずだと指摘している。

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