ソ連にホームレスはいたのか

 ソ連のような、(ソビエトのプロパガンダによれば)社会的平等と正義が徹底された国では、ホームレスが生まれる余地はなかった。ホームレスが生まれることは、このバラ色のユートピアにはなじまなかった。だが、現実はずっと暗かった。

 結論から言うと、もちろんソ連にもホームレスはいた。だが彼らの存在はことごとく都市伝説へと変えられていった。食べ物や寝床を求めて通りを彷徨っていた数万、数十万人の存在をどのように隠すことができたのだろうか。逆説的だが、隠すことはできないにせよ、呼び名を変えることはできたのだ。

貧困を否定したスターリン

教育人民委員がホームレス子供を登録する、1928年

 革命後数年間は実際、ソビエト政権が社会主義国家を建設するや否や、物乞いやホームレスは過去の体制の遺物としてやがて消えていくと考えられていた。当初は彼らの統計調査も行われた。1926年の国勢調査では、13万3000人が物乞いをしていた。物乞いをする人々は、基本的にホームレスだった。

 「この事実が重要なのは、問題に注意が向けられ、その研究がなされているからだ。物乞いとその動機、原因、社会カテゴリーの構成についての素晴らしい研究が行われている」とロシア科学アカデミー・ロシア歴史研究所のエレーナ・ズプコワ上級研究員は指摘する。 

 新政権は貧困対策に取り組んでいる。あるカテゴリーの人々に最低年金を与え(ただし最低生活費も補えないほどの少額だった)、就職を斡旋した。ただし、ロシア帝国時代に特権階級にいた人々のような社会集団は、この援助から切り離されていた。

 貧困撲滅運動がそれほど急進的なものでも効果的なものでもなかったことは明らかだ。時は流れ、イデオロギー機関は全面的な幸せの時代が目前だという考えを全国的に流布するようになる。未解決の問題をどう片付けるか。堕落と呼び換えれば良いのだ!

 第一に、1930年代に貧者に対する全研究が終わる。貧困という現象自体は、アルコール依存や売春と同等の、人が自分で選ぶ、非常に堕落した選択と言い換えられた。第二に、ソビエト連邦には社会主義社会の基礎が作られていると宣言するソ連憲法が採択される。第8回全連邦ソビエト大会でヨシフ・スターリンは、国内にはもはや貧困や失業の理由はないと宣言する。

仕事や家がないのは罰

ホームレスモスクワ住民、モスクワ、1991年12月

 この時から、ホームレス撲滅運動は弾圧という異なる次元に移る。物乞いや放浪者は捕まり、大都市の外に追い出された。こうした慣行はロシア帝国時代から存在しており、一定のカテゴリーの人々はモスクワやサンクトペテルブルクで暮らすことが禁止されていた。だがこの「繁栄する首都」から追い出すという考えを発展させたのはボリシェヴィキだった。そしてこれを「101キロメートル先への移住」と呼んだ。基本的に、これは大きな祭り(例えば1947年のモスクワ800周年祭や1980年のオリンピックなど)の前に実施された。 

 日常的には別の対策が存在した。民警は路上の物乞いを捕らえ、親族の有無やモスクワに暮らしているのか否かを明らかにせねばならない。もし親族がなく労働能力があれば、社会保障機関に引き渡され、就職先を斡旋される。労働能力のない者は、障碍者施設に引き渡される。書類上ではこのような仕組みになっていた。 

 現実には、この仕組みは全く機能していなかった。ズプコワ氏の話では、就職斡旋には大きな問題があり、障碍者施設は壊滅的に不足していた。ホームレスは時に、代わりに精神病棟に入れられた。診断書を作るのは問題なかった。問題は後にそこから出ることだった。

 こうした人々は、事情が明らかになるまで、どこかで拘留する必要があった。そして1946年には、仮収容所兼配給所が作られた。ひどく非衛生的で非人道的な条件の施設だった。こうした仮収容所は長くは存続しなかった。 

 1951年、「反社会的寄生的分子撲滅政策」の政令が出される。それによれば、ホームレスはソ連の遠隔地にある特別居住地に5年間送ることになっていた。要するに流刑だ。だが10年後には状況がいっそう悪くなった。当局は「寄生罪」(公式の職に就いていないこと)で人々を取り締まり始めたのだ。ホームレスだけでなく、非公式の収入を得ている人なら誰でもこの政策の犠牲者となった。家を持たないという理由でいつでも投獄され、最大2年間の懲役を強いられる可能性があったのだ。

ソビエト後期の混乱 

 この時からホームレスの取締りは過激化し、地下鉄や路上でホームレスを見かけることはほとんどなくなった。60年代から、彼らは地下室や屋根裏、暖房配管の分岐点、廃止された防空壕などに、誰の助けも期待できずに隠れなければならなくなった。

 ソ連の社会政策もまた1930年代の水準に留まりはしなかった。貧困は、新聞で決して報道されないタブーのテーマとして、「不十分な物質的保障」という婉曲的な呼ばれ方をするようになった。そして現実の仕組みが開発されていった。例えば、1977年憲法では、ソ連市民が住居を持つ権利が記された。だがこの権利は、憲法によれば、国家と社会の住宅ストックの発展と並行して保障されることになっていた。そしてこのストックでは、2億5000万人(ソ連崩壊までに2億9000万人)のソビエト市民全員に住宅を提供することはできないのだった。

 1980年代末には状況は目に見えて深刻化した。食料や日用品の不足がひどくなる中、配給券制度が導入されたのだ。配給券は住宅事務所で配られ、これを受け取るためには、定住地を示す居住登録査証が必要だった。配給券制度では、査証のない人々は何も買うことができなかった。「それまでは違法にアルバイトをして食料を買うことができたが、配給券の導入のせいでホームレスは死ぬしかなくなった」とかつてホームレスだったワレーリー・ソコロフ氏は回想する。彼は慈善組織「ノチリェーシカ」(「宿」の意)の創設者である。彼が家を失ったのは22歳の時だった。数年間ウクライナで過ごして故郷のサンクトペテルブルクに戻ると、親族が彼をアパートの登録簿から外してしまっていたのだ。

 ソ連時代後期でさえ、当局は公式にホームレスの存在を認めようとしなかった。1991年にサンクトペテルブルク市長となったアナトリー・ソプチャクは、市内にホームレスは存在せず、これは記者のでっち上げにすぎないと話していた。当時モスクワ市長だったユーリー・ルシコフも折に触れて同じことを述べていた。1991年、ソ連崩壊に伴い、放浪に対する処罰を定めた条項がようやく刑法から消えた。

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