幼少期の夢への道
アルカージー・フランツェヴィチ・コシコは1867年にミンスク県ブロシカ村で生まれた。後にロシア帝国を代表する探偵となる彼は、裕福な名家の出身だった。
幼少期からコシコは探偵小説を愛し、探偵になったつもりで物事を「捜査」していた。だが彼の進路は探偵とは無縁だった。彼はカザン陸軍士官学校で学び、その後シンビルスク(現ウリヤノフスク)に移り住むことになった。
単調な日々が続いた。活動的で精力的な人間だったアルカージーは明らかに退屈していた。平和な時代、戦場での武勲を上げることなど夢のまた夢だった。1894年、若き将校は人生を大きく変える決断をした。つまり、幼少期の夢を実現することにしたのだ。こうしてコシコはリガで並の監察官となった。
彼はすぐさま事件の渦に巻き込まれる。リガ警察で働いて3年で彼は8件の犯罪を摘発するという成果を上げた。成功にはもちろんちゃんと土台があった。コシコはしばしば文学作品の探偵たちの手法を拝借し、自身の捜査に応用していたのだ。
例えば、彼はおとり捜査で犯罪者をおびき寄せることがあった。彼にとってはメイクと衣装が不可欠の捜査道具だった。別人に変装し、一人でリガの盛り場へ向かい、仕事に取り掛かるのだった。ある時彼はカード賭博師に化け(このために探偵はプロからレッスンを受けた)、何人かの相手を倒し、その後犯罪集団の頭領にゲームを持ちかけた。ゲーム中にこの犯罪者は警官らに逮捕されたのである。
コシコの輝かしいキャリア
間もなくコシコはリガ警察刑事部の部長に昇進し、それから首都(当時はサンクトペテルブルク)、後にモスクワに移動となり、そこで刑事警察の長官となった。
1910年、彼は皇室をも揺るがした大事件を解決した。春に何者かがモスクワ・クレムリンの生神女就寝大聖堂に盗みに入ったのだ。犯行現場を見た後、コシコは窃盗犯がまだ逃走できていないと推理した。どうやら、通りすがりの人に見られてしまい、大聖堂内に身を隠すことにしたらしかったのだ。
警官らが何度か大聖堂を隈なく捜索したが、窃盗犯の痕跡は全く見つからなかった。コシコは犯行現場を封鎖して待つよう命じた。3日後、イコノスタシスの裏から若い男が現れ、その場で逮捕された。警官らは男の所持品にウラジーミルの生神女のイコンから盗まれた貴石も発見した。犯人はセルゲイ・セミンという宝石細工師の弟子だった。男は警官らが去ることを期待して、丸3日間秘密の場所で聖パンを食べて過ごしていたのだった。
最重要事件
翌年、コシコはヴァシカ・ベロウスの強盗団を壊滅させた。これがおそらく彼のキャリアで最重要の事件となった。事件については探偵自身が自著『帝政ロシアの犯罪界』(«Уголовный мир царской России»)に綴っている。
1911年、モスクワのある地域に突如強盗団が現れた。犯人らは裕福な家で強盗を働き、しかも住人に怪我を負わせていた。郡警察はただ手をこまねいていた。そこでコシコが捜査に加わったのである。間もなく警官らは強盗団のメンバーの一人を逮捕した。尋問で犯罪者は、彼らを指揮しているのがヴァシーリー・ベロウーソフという男で、自らヴァシカ・ベロウスと名乗っていると供述した。その後強盗犯は、ヴァシカは盗品を人々に分け与えるため、平民の多くがヴァシカを支持していることを認めた。金持ちの財産を奪って貧しい人々を助けることで、さながらモスクワのロビン・フッドとなっていたのだ。群警察の捜査が前進しないのももっともだった。真の英雄たるベロウスを農民らがかばっていたのだ。
時が流れても、ベロウスは捕まらないままだった。頭領は大胆になり、警察に置手紙まで残すようになった。声明文はいつも同じ文言で始まっていた。「これは俺、捕まらない強盗団の名高い頭領、ステンカ・ラージンの幸運の星の下に生まれたヴァシカ・ベロウスの犯行だ。人の血は流さず、ただ遊び歩いているだけだ。俺を捕まえるな。俺は捕まらない。火も弾も俺を捕らえることはできない。俺にはまじないが掛かっているんだ」。
だが、盗みを働けば働くほど、ヴァシカは危険になっていった。結局、彼は血で手を染めることになる。彼とその部下は、将軍の妻、警察署長、警官の3人を殺害してしまったのだ。間もなく強盗団は逮捕された。ベロウスは犯行を認め、死刑判決を受けた。ヴァシーリーは死刑執行人に自分を殺させなかった。「手を汚すな、すべて自分でやる」と言った後、彼は首に縄を掛け、踏み台を足で跳ねのけたのだった。
警察改革
モスクワに来たコシコは、現地警察の仕事を近代化した。警察署に、警官の仕事だけでなく諜報員や情報提供者の活動も監督する探偵監督官が設置された。探偵ら自身も監視下に置かれ、コシコが自ら選んだ秘密諜報員が彼らを尾行した。そしてこのシステムは良い結果を生んだ。もちろん、これで収賄者や潜入スパイが完全に根絶されたわけではないが、不正を働く人々はかなり生きづらくなった。
コシコは張り込みの方法も変えた。新たな方法の要点は、警官らを含め、誰も作戦の正確な時間と場所を知らなかったということだ。加えて、彼の主導でモスクワに指紋鑑定や人体測定法に基づく犯罪者らの先進的なカード目録が現れた。このシステムを考案したのはフランス人法学者のアルフォンス・ベルティヨンで、19世紀末にロシアに伝来したものだった。1890年、サンクトペテルブルクの探偵警察に人体測定部が設置され、写真スタジオと統合されていた。だが警官らはほとんどこのシステムを活用していなかった。コシコが現れたことですべてが変わったのだった。
パリでの晩年
1917年、探偵の人生は大きく変わった。臨時政府は警察を廃止して多くの刑務所を閉鎖し、囚人は自由の身となった。ボリシェヴィキが政権を取ると、アルカージー・コシコは重大な危険に晒された。彼は共産主義思想に賛同しておらず、当初はノヴゴロド州にある自身の領地でほとぼりが冷めるのを待とうとしていた。しかしここも間もなく危険になった。コシコはまず家族とともにキエフに移住し、そこからさらにオデッサへ移った。その後もう一度居所を移した。昨日の探偵は、ボリシェヴィキの追跡から逃げ、セヴァストポリに落ち着いたのだった。
クリミアが新政府の手に落ちると、コシコはトルコに亡命し、イスタンブールに定住した。ここで彼は私立探偵局を開き、遺失物を見つけたり、女性の不倫の証拠を見つけたりして生計を立てた。
もちろん、名探偵にとってこのような仕事は些細なものだったが、明日へのせめてもの希望にはなった。だが間もなく、彼の人生はさらなる急転回を見せる。亡命ロシア人の間で、トルコ政府とボリシェヴィキが全ロシア人のロシアへの強制送還に合意したという噂が流れたのだ。コシコ一家は再び追われる身となった。彼らが次に向かったのはパリだった。
コシコが国籍を変えることはなかった。このため彼はフランスでもイギリスでも探偵業を続けることができなかった。実はスコットランドヤードが彼に仕事を提案しており、彼は英国民になりさえすれば、この提案を受け入れることができたのだ。
コシコはパリに留まり、店員として働いて回想録の執筆に勤しんだ。彼はこう綴っている。「私が生きているのは現在でも未来でもない。すべて過去だ。過去の記憶だけが私を支え、いくらか精神的な満足を与えてくれる」。
アルカージー・コシコは1928年に世を去った。ロシア帝国を代表する探偵の亡骸はパリに埋葬された。