17枚の写真に見るソビエト1920年代:この時代のすべての恐怖と底力を見せてくれる

Ivan Shagin/Sputnik, Boris Ignatovich/МАММ/МDF/russiainphoto.ru
 紆余曲折に満ちた1920年代に、新生国家、ソビエト連邦は、内戦、蜂起、外国の介入、飢餓、経済危機に見舞われた。その一方で、国の大規模な近代化と工業化に着手している。それはやがてソ連を世界的なリーダーに変えることになる。

1. 外国軍の干渉の終わり

 1920年4月、ロシア極東。アメリカの干渉軍が、戦死者を納めた亜鉛棺を無蓋車に積み、牽引している。棺は米国旗で覆われている。

 ロシア革命後、ロシアで内戦が発生すると、第一次世界大戦の連合国(日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、カナダ、中華民国)が、反ボリシェヴィキ勢力(白軍)を支援するために、または彼ら自身の政治的および領土上のもくろみで、内戦に介入することを躊躇しなかった。しかし、赤軍の軍事的勝利と白軍の崩壊により、外国の干渉軍は次々に撤兵していった。1920年春までに、ほとんどの干渉軍がロシアから退いたが、一部の領土はようやく1925年に解放された。

 

2. ポーランド・ソビエト戦争

 1920年、ウクライナ。ポーランド・ソビエト戦争におけるソ連の大砲。

  1919年、ポーランドとソビエト・ロシアは、東ヨーロッパにおける覇権をかけて、戦争を始めた。赤軍は、ポーランドの首都に迫り、ポーランドをソビエト化した後に「世界革命」のイデオロギーを中央および西ヨーロッパに広める意向だった。しかし、1920年のワルシャワの戦いにおける赤軍の壊走が、これらすべての計画を帳消しにした。

 

3. ヴランゲリの敗退と亡命

 1920年11月。赤軍のコサック部隊がこれから、クリミアのペレコープ要塞を攻撃しようとしているところ。この要塞は、白軍の最後の拠点であり、ピョートル・ヴランゲリ将軍が指揮していた。

 1920年初め、ピョートル・ヴランゲリ男爵指揮下の白軍は、敗北を重ね士気を失っていたが、クリミア半島で最後の拠点に立てこもった。半島に突入しようとする赤軍の試みを一時は撃退したものの、11月の赤軍の大攻勢の前にはなすすべがなかった。クリミアでの白軍残党の敗北と亡命は、ロシア南部の反ボリシェヴィキ勢力、白軍が壊滅したことを意味した。

 

4. 非識字の克服

 1926年、トルクメニスタン。同共和国の女性が文法の授業を受けている。 

 1920年代からソ連は、非識字者に対する広範な取り組みを始めた。当時、非識字率はほぼ80%の水準に達していた。しかし、1927年までに、教師の訓練、辞書の発行、農村への学校の設置など、広範囲にわたる体系的措置により、1千万人以上が教育を受けられるようになった。

 

5. クロンシュタットの反乱

 1921年、3月。赤軍兵士がクロンシュタットの反乱部隊を攻撃する。

 水兵たちのボリシェヴィキ政権に対するこの反乱は、1921年3月に軍港クロンシュタットのバルティック艦隊の基地で発生し、ソビエト指導部に大きな衝撃を与えた。レフ・トロツキーが「革命の誇りと栄光」と呼んだこの水兵たちは、革命軍の中でも最も信頼できるコアだった。水兵たちは、ボリシェヴィキ独裁の停止を要求したが、何度かの凄惨な攻撃の後、敗北した。

 

6. ロシアの電化

 1925年、モスクワ州ヴォチノ村。電球を手に取る農民。

 1921年後半、国全体を電化する全般的な計画が採択された。10年の間に、数十の新しい発電所が国の総発電量を7倍に増やした。電化はロシアの工業化の基礎を築いた。

 

7. ヴォルガ沿岸地域の飢餓

 1921年、サマラ州ヴズルカ村。カニバリズムで告発された農民たち。前方にあるのは、「食い残し」の死体だ。

 

 悲惨な内戦とソビエト当局による食糧徴発により、1921~1922年に大規模な飢餓が生じた。飢餓は、クリミア半島とウクライナ南部からカザフスタンとシベリアにいたる広大な領域に広がった。とくに甚大な被害を被ったのはヴォルガ沿岸地域で、この時のソ連の飢餓全体が「ヴォルガ沿岸地域の飢餓」と呼ばれたほどだ。500万人以上が餓死している。ソ連当局は、教会財産の売却金で食料を購入することで問題を解決しようと必死だった。海外の慈善団体からも多大な支援がなされた。

 

8. 内戦の終結

 1922年10月25日。極東共和国の軍隊がウラジオストクに入城する。極東共和国は、ソビエト政権が日本のシベリア出兵に対して創った緩衝国家で傀儡政権だ。 

 日本もまたロシア内戦に介入した。いわゆるシベリア出兵だ。その結果、極東地域が日本の占領下に置かれた。日本との直接対決を避けるために、ソビエト政権は1920年に日ソ両国の間に緩衝地帯を設けた。

 極東共和国は名目上は独立国家だったが、事実上ソビエト政権の利益のために行動した。1922年10月25日、日本の干渉軍の最後の部隊がウラジオストクから引き揚げ、同市は直ちに赤軍が占領。数週間後、極東共和国はソビエト政権に統合される。

 

9. ラパッロ条約

 1922年4月。イタリアのラパッロにおけるソビエト・ロシアとドイツの外交官。

 ラパッロ条約(1922年)は、国際舞台における2つの「はみ出し者」、つまり敗北し屈辱に甘んじているワイマール共和国と世界に認知されないソビエト・ロシアにとって極めて重要なものだった。両国は、さまざまな経済協力と軍事協力について合意した。これはソビエトにとって最初の主要な国際協定であり、その地政学的孤立から抜け出す最初の一歩だった。

 

10. ソビエト連邦の成立

 1922年.モスクワのデモンストレーション。 

 1922年12月30日、ソビエト・ロシアと、ウクライナ共和国、白ロシア共和国、ザカフカース連邦共和国(アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア)の代表は、ソビエト連邦の創設に関する条約に署名した。そして、2年後に最初の憲法を採択する。

 

11. ピオネール

 1927年5月1日。メーデーの行進におけるピオネールとホームレスの子供たち。

 1922年に、共産党の少年団「ピオネール」がソビエト・ロシアで創設された。ボーイスカウトのソビエト版といったところだが、共産主義の理想に従って児童を育成することが求められた。つまり児童は、体制に完全に忠実で、献身的でなければならなかった。

 

12. ウラジーミル・レーニン死去

 1924年1月。レーニンの棺の傍らに立つソビエト政権の指導者(ジェルジンスキーとヴォロシーロフ)。 

 「永遠の」ボリシェヴィキ指導者の死は、ソ連の指導者にも一般人にも衝撃を与えた。レーニンの遺体を納めた棺に、50万人以上が訪れ、別れを告げた。ウラジーミル・レーニンの亡骸は、赤の広場に特別に建てられた霊廟に安置され、ボリシェヴィキ政権の聖なる偶像となった。

 

13. セルゲイ・エイゼンシュテイン

 1926年。ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテイン。映画『全線』(The Old and the New)のセットにて。

 1920年代に、伝説的なソ連の映画監セルゲイ・エイゼンシュテインは、革命を題材としたものを含む初期の傑作群を創った。そのなかには、『十月』(最初の題名は『世界を揺るがした10日間』)(1927年)と『戦艦ポチョムキン』(1925年)がある。後者は、史上最高の名画の一つとみなされている。

 

14. 農業集団化

 1929年。ウクライナのマルチヴィ村。集団農場に組み込まれる前に農民たちが集会で話し合う。

 1928年に始まる農業集団化は、個々の農民の土地と労働力を集団農場に統合することを目的としていた。いわゆる「コルホーズ」だ。労働者は、賃金を受け取っておらず、コルホーズの生産物の一部をもらった。それも、自分と家族の「必要分」だけだった。

 コルホーズをソ連の社会主義イデオロギーの里程標とすることが意図されていた。幸福な労働者の共同体が、巨大な国家全体の利益のために、完全な幸福と調和の中で協働している…。しかし実際には、ロシアの農民の従来の伝統、慣習が破壊されて、破滅的な大飢饉(1932~1933)が起きた。

 

15. スパルタキアード

 1928年。旧東欧共産圏諸国で開催されていた総合スポーツ大会「スパルタキアード」におけるフィンランド・チーム。 

 国際オリンピック委員会(IOC)からボイコットされたソ連は、独自の「ソビエト・オリンピック」を創設することを決定し、これをスパルタキアードと呼んだ。古代ローマに対して反乱を起こした剣闘士や奴隷、スパルタクスにちなんだ名称だ。

  1928年8月12日、第9回アムステルダム・オリンピックが閉幕したのと同じ日に、第1回スパルタキアードが始まった。17か国から612名の選手がモスクワにやって来たが、そのほとんどがドイツとフィンランドの選手で、全員が労働者のスポーツ協会の会員だった。ソ連が彼らの「プロレタリア的な」イベントを「ブルジョワ的な」オリンピックに対置したためだ。

 

16. 工業化

 1920年代。自動車メーカー「ジル」で働く労働者とコムソモール員。コムソモールは、共産党の青年団だ。 

 1928年に、ソ連の国民経済の発展のための第一次五カ年計画が始動。あらゆるソ連国民の多大な苦痛と努力の末に、またアメリカとドイツの専門家の参加を得て、ソ連は農業から工業国へ変貌した。

 ソ連は1500の新工場を建設し、独自の自動車産業を創り、石油、製鉄、電力生産で世界をリードする国の一つとなった。こうして増大した産業のポテンシャルにより、赤軍の装備刷新が可能になり、それは間もなく実施された。   

 

17. トロツキーのソ連からの追放

 左は、1928年のレフ・トロツキー。ソ連追放の直前である。右は、1929年のヨシフ・スターリン。 

 1929年、ボリシェヴィキ政権の主要な指導者の一人であったレフ・トロツキーは、ソ連から追放された。ヨシフ・スターリンに対しともに対抗してきた仲間たちが次第に脱落して孤立した末のことだった。スターリンは徐々に強大な権力を自分に集中していく。

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