ロシアにメーデーをもたらしたのはドイツ人?

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 ロシア人でもほとんどの人がメーデーはボリシェヴィキが「平和と労働」の祭典として導入したと考えている。しかし、この祭りは実はドイツに起源を持ち、かのピョートル大帝もこの祭りを祝っていたのだ。

 悪霊が人の金に手を出す――端的に言えば、ドイツ人が5月1日を祝うようになったのはこの信仰が原因だ。伝統的には、この祭典は部族時代、おそらく古代に起源を持つ。5月1日は彼らの「会計年度」の開始日で、歴史家のタチアナ・ビリュコワによれば、ドイツ人は「五月の木」の祭日(「メイポール」とも言われる)を祝って悪霊退散・幸福招来を祈願したという。

ヨーロッパとロシアで5月の祭りは同じだったのか

 ロシア人の間でも「五月の木」に似た独自の祭りがあった。6月初旬の三位一体の主日に祝われていた異教の祭りだ。白樺の木が祭りの中心的なシンボルだった。白樺の葉でリースが作られ、白樺の木は飾られ、人々が輪になって木の周りを踊った。春の終わりと新たな農業シーズンの到来を告げるこの祭りは、若い女性らが若い白樺で作られたアーチの下を歩くことで互いの友情を誓い合う伝統の祝日でもあった。これはヨーロッパで祝われていた祭りとはかなり違っていた。

 5月の祭りはヨーロッパ社会においてさまざまな形で存在し、木が主なシンボルであることも共通していた。「五月の木」(中欧や東欧ではロシアと同じく白樺)は世界の軸を象徴し、男根(ジークムント・フロイトの説)や多産とも関連付けられた。ヨーロッパ式の5月の祭りがロシアに到来したのは比較的遅く、事実ドイツ人がもたらした外来のものだった。 

なぜドイツ人はロシアにやって来たのか

 15世紀から16世紀には、ドイツの軍人、学者、鉱山労働者などが職を求めて集団でモスクワ・ツァーリ国にやって来始めた。その数は非常に多く、16世紀のイワン雷帝の治世には、モスクワにドイツ人街ができたほどだった。 

 数十年間、ドイツ人や英国人、デンマーク人、オランダ人はモスクワで訝しがられたが、17世紀末には若き皇帝ピョートルがドイツ人と特別なつながりを持つようになった。これは彼の母親がヨーロッパ式に育てられ、父親のアレクセイ・ミハイロヴィチが当時のヨーロッパの科学技術に多大な関心を抱いていたことと関連していた。ピョートルはドイツ人街に通い、パトリック・ゴルドンらと親しくなった。ゴルドンはロシア史上初めてツァーリが個人的に訪問(1690年)した外国人だと考えられている。

 ピョートルより37歳年上のゴルドンは、ピョートルの主要な軍事顧問となり、兵士らや近衛兵らを指導した。それ以来ドイツ人は徐々にロシア社会で新たな地位を得ていった。結局のところ、ツァーリが好むものは、皆も好まなければならなかったわけだ。

愉快なマイバウム

 ますます多くのドイツ人がロシアに殺到するにつれ、ドイツ人街は新たに来た移住者を収容できなくなっていった。そこでソコリニキ地区に仮設の居住地が作られた。ここは当時モスクワの校外に位置し、ツァーリが森で鷹狩りをしていたことからこの名が付いた(「ソコル」は鷹の意)。短期間ではあったがソコリニキにはドイツ人居住区が築かれ、住民はドイツ人街に移住した後も毎年5月になると「マイバウム」(「五月の木」)を祝うためにここへ帰ってきた。

 彼らの祭りはロシアのものほど穏やかではなかった。「ドイツでは、ヴァルプルギスの夜に、魔女や悪霊、その他あらゆる邪悪なものがサバトに集まると信じられていた。彼らは動物に化け、シャベルや箒に乗り、不潔な祭壇で踊った」とビリュコワは記している。魔女や鬼の子を追い払うため、「人々は長い柄に付けた藁を燃やして村内を走り回り、空に銃を発砲する者もいた」。 

 大騒ぎに大酒。ロシア人はお祝いが好きだ。そんなわけで、18世紀にはドイツ式に5月の祭りを祝うモスクワ住人がどんどん増え、酒を飲んで踊り、頂点にリースを取り付けた高いポール(メイポール)に登った。18世紀末までに、これはモスクワの外にも波及した。ドイツ人は国の至る所に住んでいたからだ。だが例えば、この伝統の中心地であったソコリニキでは、この祭りはどのように行われていたのだろうか。

ドイツ・テーブル 

 ドイツ人居住区は18世紀初頭には「ドイツ・テーブル」と呼ばれるようになった。ピョートル大帝がロシアで働くドイツ人やスウェーデン人をソコリニキで定期的にもてなしたからだ。そしてこれは急速にエスカレートしていった。1756年のモスクワの新聞はこう報じている。「ソコリニキは晴天につき人々が押し寄せ、千台の馬車が目撃された。祭りは夜更けまで続いた」。

 19世紀の初めまでに、ソコリニキのプロムナードはドイツ的な要素を失い、全モスクワ的なパレードに姿を変えた。貴賤を問わず皆が祭りに集まった。金持ちエリートは莫大な富を見せびらかし、民衆は羨望の目でそれを眺めるのだった。

 公式には、ソコリニキのプロムナードはモスクワ市長のドミトリー・ゴリツィン公(1771年-1844年)が「再発見」したことになっている。彼自身とても外国的だった。一時期ヨーロッパで育った彼は、ロシア語に難があり、フランス語訛りが強かった。毎年5月1日になると、ゴリツィンは派手な馬車の豪華な行列を作り、ソコリニキへと向かうのだった。

 そこでは客人が円をなして馬車を乗り回した。歴史家のヴェーラ・ボコワによれば、最大3000台の馬車と数千人の人が集まっていたという。19世紀のモスクワのオペラ歌手、パーヴェル・ボガトィリョーフは「この祭りでは砂埃が立ち上り、酔っ払った群衆は騒ぎ、酒のせいでぼうっとしたまま押し合い、叫びながら帰っていくのだった」と記している。

 だがソ連全国で祝われていた労働者の日としてのメーデーは、実際イデオロギー的な祝日であり、ここで紹介した5月の祭りとはほとんど関係がない。

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