ロシアのツァーリ、指導者たちの身体障害:ワシリー盲目公からエリツィンまで

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 統一国家ロシアの基礎を築いたモスクワ大公は盲目であり、ロシア連邦初代大統領は、指が二本欠けていた。しかし、ロシアの歴代君主のなかには、彼らほど知られてはいないが、身体障害を負った者もいる。

 ロシアの君主、指導者が病身であったり、何かの疾病にかかったり、あるいは先天性の病気、異常を抱えていた場合、それに関する情報は、基本的には、慎重に扱われ隠された。

 それは安全のためだった。というのは、内外の敵がそうした情報を悪用しかねないからだ。また、ロシアの民衆は、君主が神聖なる使命を負っていると信じ込んでいたので、君主とその家族の病気を何かの凶兆と受け取った。

 さらに、専制君主の深刻な病気はすぐさま玉座をめぐる暗闘を引き起こした。ロシア帝国最後の皇帝、ニコライ2世がチフスに罹患したとき、皇族と高官らが、彼の娘、オリガ大公女を後継者にする可能性について話し合ったことが知られている。

 しかし、モスクワ大公国草創期の大公の一人だけは、自身の身体的ハンディを隠す術がなかった。

 

1. ワシリー2世(ワシリー盲目公)――盲目

 ワシリー・ワシリーエヴィチ(1415~1462年)は、ウラジーミルではなくモスクワで大公位に就いた最初の人物だ。

 ワシリーの時代には、激しい内訌が起き、彼はそのために目を潰されている。こうした復讐あるいは「敵の無力化」の方法は、当時は一般的だった。これは殺害ではなく、恐るべき心理的ショックを加え、身体障害者にするのが目的だ。

 ワシリー・ワシリーエヴィチにしてからが、1436年に、公たちの内訌のさなかに、当時ズヴェニゴロド公だった15歳の少年の片目をくり抜くように命じている。その10年後、ワシリーは、片目の公の弟、ドミトリー・シェミャーカにより盲目にされた。

 18~19世紀の作家・歴史家ニコライ・カラムジンによると、ドミトリー・シェミャーカは、公たちにこう讒言した。すなわち、ワシリーはモスクワを「ツァーリのマフメト」に与えるつもりである、と(おそらくそれは、カザン・ハン国のウルグ・ムハンマド〈1405~1445年〉のことだろう)。

 その少し前、ワシリーは、ウルグ・ムハンマドに捕らえられ、莫大な身代金を払って解放されていた。そのため、ロシアの公たちは皆、こう陰口をたたいていた。モスクワ大公は、ロシアの地をタタール人に引き渡して助かりたがっていると。

 リューリク朝の公たちの中には、ある公が別の公――すなわりリューリク朝の同じ親族――を殺したケースもある。しかし、ドミトリー・シェミャーカは、ワシリーを殺しはしなかった。ワシリーは、1446年2月16日から17日にかけての夜に、目を潰された。

 ニコライ・ボリソフ教授は、年代記に記されている、その悪夢の詳細をこう伝えている。

 「ドミトリー・シェミャーカは家来たちに、仕事にとりかかれと命じた。彼らは、ワシリー公のいる部屋に行き、襲いかかり、床に倒し、板で押さえつけた。ベレステニと呼ばれる馬番が、ナイフで公の目を潰し、その際に彼の顔をひどく傷つけた。仕事を終えると刑吏たちは去り、意識を失ったワシリーが『死んだように』横たわっていた」

 シェミャーカはモスクワ大公となり、ワシリーは、モスクワ近郊の古都ウグリチに追放された。 しかしその後、ワシリーは捲土重来し、敵を倒して、どうにかモスクワ大公位を取り戻した。

 ワシリーは、家来を通じてシェミャーカの料理番を買収し、シェミャーカを殺した。料理番は、ニワトリに毒を盛ってシェミャーカに食わせたのである。彼は12日間にわたり悶え苦しみながら亡くなった。

 ワシリーは生涯黒い布を顔に巻いていた。それは、醜く損なわれた、目のない顔の上部を覆っていた。 

 

2. ピョートル大帝――マルファン症候群(推定)

 ピョートル大帝(1世)の長身――203センチ――は有名だ。ところが、彼の両親は二人とも中程度の身長だったから(当時の平均は160~165センチ)、ピョートルの身体の異常な薄さとひょろ長さは、若い頃から周囲の耳目を集めた。こういう長身なのに、体躯は堂々たる勇士風とはいかなかった。足のサイズは「39」(つまり約25センチメートル)しかなかった。ピョートルが身に着けた外套が残っているが、これもサイズの小ささで驚かせる。

 現存するピョートルの肖像画はどれも、実際の外見と不均衡な姿を反映していない。手足は異常に長く、また身体に比べて頭が小さかった。

 また、ピョートルが激怒すると、身体が痙攣し、顔をひどくしかめていたことも知られている。そういうケースはたくさんあった。

 例えば、デンマークの海軍軍人Just Juelが目撃したところによると、ピョートルは、大北方戦争の雌雄を決したポルタヴァの会戦の後でモスクワに戻ったとき、ある兵士の行進の仕方がまずいと言って激怒し、危うく自らサーベルで斬り刻むところだったという。

 ピョートルは、マルファン症候群を持って生まれたと推測されている。これは、稀な遺伝病で、高身長、身体の薄さ(脂肪組織の発達不良)、および全般的に過剰な活発さを示す。

 ピョートルはただじっと座っていることができず、常に何か仕事することを好み、とても速く歩いたことは有名だ。

 症状には脊柱変形も含まれる。同時代人の証言によると、ピョートルは猫背で、頭を肩にめり込ませるようにしていた。

 マルファン症候群の人は、アドレナリンが副腎で過剰に生成され、血中アドレナリンの濃度が高いため、ほとんどいつも興奮、恍惚、苛立ちの状態にある。ピョートル大帝の不屈のエネルギーと怒りの激発は伝説となっている。

 マルファン症候群は、高度な知能とも関連している。名ヴァイオリニストで作曲家のニコロ・パガニーニやアメリカ大統領のエイブラハム・リンカーンにもおそらくこの病気があった。

 

3. アレクサンドル1世――左耳が聞こえなかった

 アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公は、エカテリーナ2世(大帝)の孫で、この祖母は、孫に英才教育を施す計画を立てた。

 出生直後から女帝は、この子供を母親のマリア・フョードロヴナのもとから連れ去り、自分の宮廷で育てた。子供の名前さえ、両親ではなく、祖母が付けた。

 ところで、1762年にクーデターで殺されたエカテリーナの夫、ピョートル3世は、成人してからも大砲の音を怖がっていたことが知られている。彼の幼年期の恐怖は、宮廷全体の中傷と嘲笑の的となっていた。

 エカテリーナは、ピョートルとの夫婦生活が最初からうまくいかなかったこともあり、彼の「幼児行動」(兵隊のおもちゃで遊ぶなど)は、成人男性、とくに皇帝にはふさわしくないと考えた。

 たぶんそれが、女帝が孫アレクサンドルを大砲の発砲に慣れさせようとした理由だろう。歴史家たちによると、演習でのべつ幕無しに砲声が轟いていたため、アレクサンドルは左耳が聞こえなくなったらしい。

 1794年、大公の教育係アレクサンドル・プロタソフは、教え子の耳が聞こえないことに気づいたが、教え子は、それを認めたがらず、治療することも拒んだ。残念ながら、もし砲声が本当にアレクサンドルの難聴の原因であったなら、それは鼓膜が損傷したためかもしれず、となると、薬物療法で治療できないのは明らかだ。

 アレクサンドルの身長は、平均を少し上回っており(1メートル78センチ)、人と話すときには、頭をかがめ、その右側を相手に向けた。若い頃から彼は、自分の欠陥を非常に恥ずかしく思い、とても小さな声で話した。この若者は、大声を出すと、聴覚障害のせいだと勘繰られるのを恐れていた。

 おまけに、アレクサンドルは、視力が非常に悪かった(現存するロルネット〈柄付眼鏡〉のレンズを見ると、両眼とも0.08~0.09ほどだった)。これも、彼の「コミュ障」をいよいよ深刻にした。

 アレクサンドルの母、マリア・フョードロヴナは、ロシア史上傑出した慈善家の一人だった。例えば彼女は、サンクトペテルブルクにろうあ学校を開設する資金を提供した。これはロシア初の耳が不自由な児童の専門教育機関だ。

 

4. ヨシフ・スターリン――合指症、萎縮

 身体障害について言えば、ヨシフ・スターリンには隠さねばならないことがあった。まず、先天性の遺伝的欠陥があった。それは合指症で、左足の第2指と第3指がくっついていた。また、5歳のときにスターリンは天然痘にかかり、顔は痘痕で覆われていた。だから、この指導者の公の写真はすべて注意深く修正されていた。

 スターリン時代に外相を長く務めたヴャチェスラフ・モロトフは、スターリンからこんな話を聞いたと言っている。それによると、シベリアのトゥルハンスク地方に流刑中であったとき、地元の農民が彼をオシカ・コリャヴイ(天然痘の痘痕面)と呼んだという。

 さらに、6歳のときに、道を渡る際に馬車にはねられて腕と頭を怪我した。そのために、彼の左腕は右腕の半分の力しかなく、真っ直ぐ伸ばすこともできなかった。年を取るにつれて、複数の指に絶えず痛みを感じるようになった。

 クレムリンの医師は、スターリンの病気を次のように診断した。

 「6歳のときの打撲傷による、左肩と左肘の関節の萎縮。それに続く肘関節付近の化膿」。にもかかわらず、スターリンは、多くの写真で左腕を使っており、子供を抱きかかえさえしている。

 

5. ボリス・エリツィン――二本の指を失う

 ロシア連邦初代大統領ボリス・エリツインは、子供の頃に左手の指を二本失っている。そのいきさつについて彼は、自伝的著作『告白』にこう記している。

 「戦争が始まった(*大祖国戦争〈独ソ戦〉の開始時、エリツィンは10歳だった――編集部注)。みんな志願して前線に行きたがったが、当然、我々子供は許されなかった。それでも銃後で、ピストルや銃、いや大砲さえも造っていた。あるとき我々は、手榴弾を見つけて分解することにした。中身を調べて、どうなっているのか理解するためだ。私は、教会に侵入することを買って出た(そこには弾薬庫があった)。夜、私は三重の有刺鉄線をくぐり、歩哨が反対側にいる間に、窓の格子を鋸で切り、内部に入り込んだ。そして、発火装置付きの手榴弾『RGD-33』を2つ見つけて、幸いにも、無事に出てきた(もし歩哨が私を見つけたら、警告なしで撃っただろう)。

 我々は、森の中へ60キロほど進み、そこで手榴弾を分解することにした。一応思いついて、他の少年たちには、約100メートル離れるように説得した。私は、ひざまずいてハンマーで叩き、石の上に手榴弾を置いた。でも、起爆装置は外さなかった。外さないと起爆することを知らなかったのだ。そして…爆発!…見ると、指がない。少年たちに怪我はなかった。街に着くまでに、何度か意識を失った。病院で、父が署名して手術を受け(壊疽が始まっていた)、指を切断した。しばらくして、白い包帯を巻いて学校に行った」

 指がないせいで、エリツィンは徴兵の対象とならなかった。後年、大統領になってからも、指が欠けていることを恥ずかしがり、左手を写真に撮らせなかった。

 エリツィンの肖像画を描いた画家ウラジーミル・ソコヴニンは、ロシア・ビヨンドのインタビューに対し、大統領がポーズをとることを拒否したと語った。それで、写真から肖像画を描かねばならず、ポーズを取らせるために、エリツィンと体つきが似ている自分の友人を招いた。

 もう一つの課題は、大統領の自然なポーズを選択することだった。ソコヴニンは、大統領がいつも本能的に左手を隠したり覆ったりしていることを思い出した。で、そのように肖像を描いた。画家によると、エリツィンは自分がそのようなポーズで描かれているのを見て、とても喜んだという。