1.「ソ連邦英雄」は、一般のソ連市民にとっては夢のまた夢だった最高の栄誉。1934年に創設されている。これを授与された者は同時に、ソ連最高の勲章「レーニン勲章」と賞状を与えられた。
2. 1939年に、特別な星章がこの褒賞に加えられた。ソ連邦英雄のメダルで、「金星章」として知られる。面白いのは、当初、星章の裏面には「Герой СС (SSの英雄)」と刻まれていたことだ。ロシア語のCはラテン文字のSに当たり、Советский Союз(ソ連)の頭文字であった。ところが、悪名高いナチス親衛隊「SS」を連想させるようになり、これはまったく許容できなかったので、銘を「Герой СССР(ソ連邦英雄)」と変更することになった。СССРは、ソビエト社会主義共和国連邦の頭文字だ。
3. 最初の「ソ連邦英雄」受章者は、蒸気船「チェリュースキン」の乗客を救った7人のパイロットだった。船は、複数の氷塊にぶつかり、1934年2月13日にチュクチ海で沈んだ。その結果、女性と子供を含む104人が大きな流氷に避難し、そこに留まった。2か月間にわたりパイロットたちは23回往復して、チェリュースキン号の乗客全員を、この恐ろしい「避難所」から運び出した。
4. 1930年代は、航空開発が活発に行われており、パイロットは他の職種よりもしばしば「ソ連邦英雄」を授与されている。彼らは、速度の世界記録を樹立し、以前は考えられなかった無着陸飛行を成功させた。例えば、1936年7月、ワレリー・チカロフらは、ツポレフ ANT-25 機で、ソ連のほぼ全域を56時間で横断している。スペイン内戦に際しては、60人の「ソ連邦英雄」のうち、54人がパイロットだった。
5. にもかかわらず、軍人、パイロットだけが国から顕彰されたわけではない。「ソ連邦英雄」になった科学者もいる。彼らは、ソビエト初の極地研究用の漂流ステーション「北極1」に滞在した人々。氷上で274日間過ごし、研究活動を行った。
6.「冬戦争」は、フィンランドと赤軍の、短期間だったが困難で凄惨な戦いだった。この戦争では、400人以上が「ソ連邦英雄」の称号を授与されている。
ちなみに、ほぼ毎日のように表彰が行われ、表彰部門が多忙な状況のなか、まったく戦火をくぐったことがないのに「英雄」になろうと思い立った男がいた。
詐欺師で前科のあったワレンチン・プルギン(本名ウラジーミル・ゴルベンコ)は、身分を偽り、軍事特派員になりおおせた。そして偽の文書や偽の褒賞を使って、架空の偉業により「ソ連邦英雄」の称号を得るのに成功した。しかし、欺瞞はすぐに明らかになり、この「英雄」は銃殺刑に処せられた。また、候補者の調査、確認のシステムはより徹底されるようになった。
7. ナチス・ドイツとその同盟国に対する大祖国戦争中に、「ソ連邦英雄」の全受章者の90%以上が生まれている。計1万1657人だ。ここでも、パイロットの受章者数が他をリードした。戦争中初の「英雄」は、敵機に体当たりした北方戦線の戦闘機パイロットたちだった。パイロットに数で続くのは、国境警備隊、歩兵、戦車兵、その他の兵科の将兵、そしてパルチザン。
8. この褒賞が存在していた全期間に、154人が2度にわたり「ソ連邦英雄」を授与された。3度受章したのは3人だけで、第二次世界大戦のエース・パイロットで後に空軍元帥となった、イワン・コジェドゥーブとアレクサンドル・ポクルイシキン。そしてソ連邦元帥のセミョーン・ブジョーンヌイだ。4度授与されたのは2人のみで、ゲオルギー・ジューコフ元帥と、ソ連指導者(ソ連共産党書記長)のレオニード・ブレジネフである。
9. 最高の栄誉は、受章するだけでなく、それをちゃんと「保持」しなければならなかった。保持できずに剥奪された者が72人いる。偉業を成し遂げたものの、その後、捕虜になったり、敵に寝返ったり、あるいは戦後、犯罪者に身を落として、強盗、殺人、強姦などを犯した者がいた。
10. ソビエト市民だけが「ソ連邦英雄」を授与されたわけではない。自由フランス軍の戦闘飛行隊「ノルマンディ・ニーメン」もこの最高栄誉を受章。また、ソ連領で編成されて東部戦線でナチス・ドイツと戦ったポーランドおよびチェコスロバキアの部隊の兵士も受章した。ソ連に友好的な国家の指導者たちにも与えられた。
戦後に「ソ連邦英雄」の受章者数が最も多かったのは宇宙飛行士だ。その中には多数の外国人がいた。彼らは、宇宙探査計画「インターコスモス」のもとでソ連の宇宙船で飛行した。
11.「ソ連邦英雄」の最後の受章者となったのはレオニード・ソロドコフ少尉だ。彼は潜水士で、潜水の新技術を用いて発揮した「勇気とヒロイズム」により、この栄誉を与えられた。
しかし、授与の決定は、1991年12月24日、すなわちソ連崩壊の2日前に署名された。手続きがずれ込み、受章は翌1992年1月となった。
授与に際しては、「私はソビエト連邦に奉仕いたします!」と必ず言う慣わしだった。だが、これが今や奇妙で場違いだと思ったソロドコフは、単にこう述べた。「スパシーボ(ありがとうございます)!」