エリツィン大統領が1997年の新年演説の収録中
Dmitryi Donskoy/Sputnik「私は決断しました。長い間苦しみながら熟慮しました。本日、去り往く世紀最後の日、私は職を辞します。(…)そうすることが不可欠だと理解したわけです。ロシアは新しい政治家、新しい顔ぶれとともに新たな千年を迎えなければなりません」――かくして1999年12月31日、ロシア初代大統領ボリス・エリツィンは辞職した。
彼は恒例の大晦日のテレビ演説で、日付が変わる5分前にこのことを発表した。ロシア人はテーブルに料理を敷き詰め、グラスにシャンパンを注ぎ、テレビの前に座り、新たな千年を迎える準備をしていた。大統領の辞職など予想もしていなかった。
1999年の新年の辞職演説からの映像
「変な感覚だった。沈黙が流れ、新年を告げる鐘が鳴り始めても皆じっと席に着いたままだった。父と母の顔を見ると、目に涙が浮かんでいた。家族の誰もエリツィンのことが好きではなかった。だがあれは強く胸を打った」とカリーニングラードに住むエゴール・ステパニュークはこの日のことを記憶している。彼は当時14歳だった。今でもあの夜のことを覚えているという。
1999年12月、大統領の支持率はどん底で、たったの4パーセントしかなかった。国民の彼に対する態度は、控えめに言っても不信に満ちていた。だが、彼の最後の演説は歴史に残った。彼は国民に赦しを請うた初めての国家指導者だった。
大統領の新年の演説は2度撮影された。最初は12月31日の数日前に収録された。これは通常の新年の挨拶で、辞職については一言も触れられていなかった。「その新年の演説の最後に彼は突然『私は今回の収録が気に入らない。12月31日に撮り直そう』と言った。テレビ局職員は面食らっていた。大晦日ではぎりぎりだったからだ。だがボリス・ニコラエヴィチは頑なだった」とエリツィン政権で大統領顧問を務め、彼の演説の原稿を書いたワレンチン・ユマシェフは語っている。
再現されたエリツィン大統領の執務室。ここでエリツィンの1999年の新年演説が収録された。エカテリンブルクのエリツィン大統領の記念館。
Pavel Lisitsyn/Sputnik12月31日午前7時、エリツィンはクレムリンに来て収録を行った。彼が何を言おうとしているのか知るのはごく限られた人間だけだった。つまり、大統領顧問、大統領府長官、娘のタチアナ、後継者のウラジーミル・プーチン、そして妻だ。なお、妻に意思を明かしたの出勤直前だったという。
「1999年12月31日の夜、ボリスはあまり眠れていなかった。普段より早く、6時に起きた。朝食をとり、職場へ行く支度を始めた。外套を着ながらボリスは言った。『ナーヤ、決めたよ。辞める』。 私は彼に抱きつき、キスをした。目には喜びの涙が浮かんでいた」と元大統領の妻は回想録『ナイーナ・エリツィナ 私生活』に綴っている。
彼が演説を収録したのは自身の執務室だった。彼が最後の言葉を発した後は、クレムリンの時計が時を刻む音がはっきりと聞こえていた。「それから誰かが拍手を始め、それからまた誰かが拍手をした」とエリツィン自身が回想している。「目を上げると、テレビ・クルーが皆立ったまま私を歓迎していた。身の置き所に困った」。
ただ、ユマシェフによれば、その後テレビ・クルー全員が電話のない部屋に閉じ込められ、携帯電話を取り上げられた。辞職のニュースが事前に国民に漏れるのを防ぐためだ。彼らは0時前に全国民が演説を聞くまで解放されなかった。
テレビ局へはワレンチン・ユマシェフが自らカセットテープを運んだ。彼が乗ったのは装甲リムジンで、交通警察の車が先導していた。
演説の収録後、エリツィンは総主教アレクシイと面会し、核のブリーフケースを引き継ぎ、テレビで収録映像を見ながら治安・国防関係省庁の官僚との別れの食事をとった。そこで彼は正式にプーチンを臨時大統領代行として紹介した。プーチンには大統領令の署名(自身の辞職についての大統領令も含め)に使ってきた歴史あるペンを贈与した。最後に彼はプーチンに「ロシアを守りなさい」とだけ言った。こうしてエリツィンは重責から解放された。
エリツィン大統領がプーチン首相に辞職について通告した。
Alexander Chumichev, Alexander Sentsov/TASS「ボリスは早めに家に帰ってきた。まだ明るかった。クレムリンの執務室に戻ることは二度となかった」と妻のナイーナは語っている。
帰宅すると、エリツィンは言った。「車でビル・クリントン[当時の米国大統領――編集部註]が電話を掛けてきた。私は彼とは話さず、後で掛け直すと約束した。それで構わない。私はもう大統領ではないのだから」。
エリツィン夫妻がバルウィハのご自宅にて。2006年11月24日
Viktor Chernov/Global Look Press辞職のニュースにさほど驚かなかった人々もいた。エリツィンに対してはすでに3度弾劾手続きが行われていた。しかも、最後の弾劾の際は新年の演説の数ヶ月前まで大統領を辞任に追い込もうという動きがあった。
エリツィン大統領の弾劾に賛成している右派団体が国会議事堂前でデモを行う。1999年5月
Vladimir Fedorenko/Sputnik1999年12月に国会議員に再選し、後に副報道官となったイリーナ・ハカマダは、辞職を予期していた人物の一人だ。「私はやはり政治家なので、情報のリークによって何が起こっているのか分かっていた」と彼女は言う。だが一人の例外もなく皆を驚かせたのは、ハカマダが「グロッギーな状態で発せられた悲劇的な」と形容するエリツィンの演説だった。彼女は新年を山スキーのリゾート地で友人らと迎えていた。彼らは非常に感情的に反応したという。「彼らが驚いたのは、その文章、特に『私は皆さんにお詫びしたい』という言葉だった。皆泣き始めた。いや、泣いてはいなかったが、悲嘆に暮れた。エリツィンのことは好きになれなかったが、彼とともに一つの時代が過ぎ去っていくことを皆実感していた。実際その通りだった」。
「私は皆さんにお詫びしたい」とあの夜エリツィンは言った。「私たちと皆さんの夢の多くが叶わなかったこと。簡単に思えたことが苦しいほど難しかったこと。『灰色の停滞した全体主義的な過去から、明るく豊かで文明化された未来へと、一気に、一挙に、飛び移れる』――そう信じた人々の希望に応えることができなかったことに対して、私はお詫びしたい。私自身そう信じていました。一気にすべて乗り越えられる、そんな気がしていました。ですが一気には、上手くいかなかった」。
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