ツァーリの子女の教育はいかに行われたか

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 16歳になるまでは自室で暮らし、本を暗記し、キャベツは決して食べない――。これは、ツァーリの子女に対する教育のほんの一端だ。

 モスクワのクレムリンから触れ役がロシアの津々浦々に派遣され、教会や修道院にはツァーリの名でお布施がなされ、微罪は許される。その間、あらゆる町の役人は、モスクワに贈り物を届けるべく馬を備えている…。

 こういったことがすべてが起きたなら、それは、モスクワのツァーリに子供が生まれたことを意味する。しかし、その後は何が行われるのか?つまり、将来の専制君主はどのように育てられていくのか?

 

おうちはクレムリンだよ

 ツァーリと皇后の子供たちは、5歳になるまで、娘も息子も、宮殿の女性の居住区に住んでいた。そして、小さな軍隊と言ってもいいくらいの大人数の看護婦、乳母、女官によって世話、監督された。母親である皇后は、好きなだけ子供と遊ぶことができたが、赤ちゃんを育て、おむつを替え、授乳し、寝かせるのは使用人の責任だった。

 では、なぜ5歳になるまで幼児を個室に置いておくのだろうか?ロシアのツァーリたちは迷信深く、黒魔術を恐れていたからだ。歴史家のヴェーラ・ボコワはその著書『ツァーリの家の幼年時代』に次のように書いている。

 赤ん坊を取り上げた助産婦は、世話係の召使いのなかで最も重要な一人だった。彼女は幼児の健康に関するすべてを知っていた。専門医がいない場合は、医療の主な権威であり、魔法の権威でもあった。助産婦は、月明かりが赤ちゃんの揺りかごに落ちないようにし(安眠できるように)、「邪視」から守った。つまり、睡眠中の赤ちゃんを誰も見ないようにし、赤ちゃんの耳の後ろにすすを塗った。また毎日、赤ちゃんの頭の近くに塩を振りかけた――。

 5歳までは、近親者と使用人だけがツァーリの子供を見ることができた。子供が教会に行くときは、使用人は、子供の両側にウールのカーテン垂らして隠す。馬車で移動するときは、窓のカーテンを閉めたままで、遊ぶ庭も囲い込まれていた。とはいえ、ツァーリの子供には遊び相手がいた。小さな将来のツァーリと遊ぶことを許されていた、富裕な家庭の子供たちだ。

 

幼い将来のツァーリは肥満し動作が緩慢だった

 ロシアのツァーリはキャベツを決して食べなかった。キャベツは「農民の食べ物」と見なされており、実際、ロシアの農民の食卓に最も頻繁に登場する食材だった。

 しかし、キャベツの漬物(ザワークラウト)には、健康に不可欠なビタミンCが多く含まれていた。ロマノフ朝初期の皇室の人々が壊血病にかかったのも不思議ではない(壊血病は、ビタミンCの欠乏により引き起こされる病気で、歯茎が出血して腫れ、既に閉じていた傷口が開くのが特徴だ)。

 とはいえ、ツァーリの赤ちゃんはふんだんに食べ物を与えられた。泣き始めるとすぐにケーキ、お菓子、ナッツなどをたくさんもらった。食事は1日5回で、その間もいつでも無制限におやつを食べられるようになっていた。

 これが、ロシアのすべてのツァーリ夫妻が肥満していた理由だ。ロシア人はまた、子供にそっけなく厳格に話すのは発育に害があると思い込んでいたから、乳母たちは、相手に取り入るような優しい口調でのみ、幼い主人と話した。そして、もちろん、小さな皇子と皇女は決して罰せられることはなく、軽く注意されるだけだった。

 しかし、子供は子供であり、彼らは皆、おもちゃが大好きだ。大人でさえ、ロシアのツァーリが幼年時代に持っていたおもちゃの豊富さをうらやむだろう。おもちゃの家、こま、チェス、すごろく、ヨーロッパの機械仕掛けの玩具(オルゴール、ぜんまい仕掛けの鳥、兵士)、 楽器(シンプルなラッパから上品な装飾が施されたクラヴィコードまで)などなど。

 男の子の部屋のなかには、特別な場所があり、武器のおもちゃ専用だった。弓と矢、ミニチュアの軍旗、旗竿、ナイフ、ピストル、カービン銃、手動の大砲、サーベル、剣。

 究極の玩具と言えば、おもちゃの馬で、皇室のすべての少年が持っていた。しかし、ピョートル大帝(1世)のおもちゃはそれ以上だった。彼は子供の頃、ミニチュアの完全な馬車を与えられ、4頭の仔馬がそれを引いた。また、おもちゃの兵隊の代わりに、衛兵の制服を着た小人の召使たちがいた。本物の軍隊のミニチュア版というわけだ!

 ピョートルの父であるアレクセイも、子供の頃は大いに楽しんだ。男たちは、アレクセイを喜ばせるために熊と戦い、宮廷の漫才師、道化の類のパフォーマンスを見物した。アレクセイは、7歳でチェスを教わり、8歳までに弓術を学んだ。しかし、武術、軍事演習は、幼年時代以降にやることだった。それは、子供たちが宮殿の女性専用区から自室に移った後で初めて始まった。

 

「恐ろしい罰が子供たちを待っていた」

 ツァーリの娘は、その全生涯を外界から隔てられた場所で過ごさねばならなかった。そして、その場所を離れることはめったになかった。

 しかし男の子たちは、一定の年齢に達すると、まったく異なる生活を始めた。乳母と看護婦は皆世話をやめ、男の子は、宮殿の男子居住区に住むようになる。家庭教師――ふつうは尊敬される大貴族――に監督されながら。

 家庭教師の使命は、少年に読み書き、乗馬、高貴な振る舞いを教えることだった。ロシアのツァーリたるものは、決して笑われずに、いかにもそれらしく振る舞わねばならなかった。だから、ほとんどのツァーリは、せかせか歩かずに、威風堂々とゆったり歩むように教えられた。

 家庭教師は、皇室の子供たちを罰し得る唯一の人となる。当時の教育は、キリスト教文献に基づいていた。例えば、ジョン・クリソストムは次のように書いている。

 「両親の権威に従わぬ子供たちには、恐ろしい罰が待っていた」。白樺の木でつくった棒が体罰に用いられた。それが、子供たちを不勉強、怠慢、不服従のかどで待ち構えていた。ついこの間までの乳母と看護婦の優しい扱いから、あまりに急激な変化だ。

 では、皇室の子供たちは何を勉強したのだろうか?現代の学童なら、この「小ツァーリ」のプログラムを習得できるものはごくわずかだろう。主な方法は暗唱だ。子供はもう読めるようになると、宗教文献の抜粋を学び始める。

 『ダビデ詩篇』の全150篇、『時課経』(じかけい〈日々の祈りと教会での祈祷文をまとめたもの〉)、『使徒行伝』、『新約聖書』、さらに様々な聖歌集。

 だから、若き皇子、ツァーリの読書プログラムは実際、相当なものだった。書き方は8歳ごろに始まり、これと並行して抜粋の読み方と聖歌の詠唱を教えられた。これは2~3年続いた。少年が16歳になると、成人したと見なされ、花嫁探しが始まる。

 

皇室の教育は有益だったか?

 こうした次第で、皇室の男子は、小さな神学者、同時に小さな戦士として育てられた。彼らは軍司令官であり、宗教的な議論に参加することもできた。しかし、それは本当に君主に必要なものだったろうか?

 答えは明らかに「否」だ。「小さなツァーリ」は、経済学、外国語、軍事戦略など、変わりつつある世界で必要な多くの事柄を教えられなかった。この「伝統的な」教育の終焉は、17世紀半ばに訪れた。

 ピョートル大帝の父アレクセイは、ヨーロッパ式の教育のいくつかの要素を自分の子供の教育に取り入れ始めた最初のツァーリだ。彼の長男、アレクセイ・アレクセーエヴィチ(1654~1670)は、ラテン語、代数、幾何、天文学、さらには詩を学んだ。

 しかし、ピョートルはそのさらに先を行った。彼は、なるほど聖歌と『新約聖書』も教わったが、いつでも自分のやりたいようにした。12歳のとき、彼は、さまざまな道具と機械を注文し、宮殿に持って来させた。肉体労働をツァーリがするのは「はしたない」と考えられていたが、ピョートルは石の加工法、本の印刷、製本、木材の加工法、操船などを学んだ。

 新しい時代が到来しつつあった。今やツァーリにさえ、ある種のプロ意識が必要だった。ピョートルの治世下では、宮廷生活の古い秩序は、モスクワの宮殿の女性居住区にしか残っておらず、それも18世紀半ばには消えていった。

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