ソビエト市民は車を買うことができたか

歴史
エレオノラ・ゴリドマン
 ソビエト時代、自動車工場はいくらでも車を作ることができたにもかかわらず、自家用車は珍しいものだった。一般市民が車を運転することを妨げていた要因は何だったのだろうか。

 ソ連には多くの自動車工場が存在したが、自家用車を持つには金だけが足りなかった。自動車の生産数が意図的に制限されていたという噂もある。自動車を持てば、ソビエト市民があまりに自由に行動できてしまうからだ。

 

頼もしい女性らが手にした自動車 

 ソビエト時代初期、国内の自動車産業はみじめなもので、自動車の大部分は「国有化」された外車(皇族から没収したものも含む)であり、業務用に用いられた。運転免許の取得は現在ほど難しくなかったが(全国に陸海空軍有志協会の運転講習所が開かれていた)、自家用車を買うことはちょっとしたセンセーションだった。 

 最初に自家用車を所有したソビエト市民の一人が、作家のウラジーミル・マヤコフスキーだった。1928年、彼は内外貿易人民委員部の許可を得て、恋人のリリア・ブリックのためにフランスからルノーNNを持ち込んだ。彼自身は運転しなかったが、彼女がねだったのだ。ところで、ブリックはソ連で最初に免許を取得した女性になった。数年後、彼女に続き、オペラ歌手のアントニナ・ネジダノワ(1931年にフォードAを入手)やリュボーフィ・オルロワ(パッカード120)が免許を取った。もちろんソ連にディーラーはなかったため、外車を買うには国外に出る必要があった。 

 30年代にはソ連で自動車産業が発展し始める。だが国家にはまずトラックやトラクター、バス、さまざまな機関(民警やタクシーなど)のための乗用車が必要だった。ソビエト指導部は徐々に自家用に購入できるような都市用乗用車について検討し始め、GAZ-AやKIM 10-50といった試作品もいくらか発売した。だが独ソ戦の開始によってプロジェクトはすべて頓挫してしまった。 

一生の長さの行列 

 ところが戦後になると、オペルやメルセデスなど、大量の「戦利品」がソ連に流入し、ソ連の自動車工場はこれらをコピーして自分たちの車を作り始めた。その結果、1950年代半ばまでにソビエト市民は自家用に新しい車を買うことができるようになった。技術の奇跡の賜物に対する需要は国家計画の想定よりも高く、自動車を求める数年待ちの列ができた。当時は工場から直接購入した。「金を貯めた、車を買った!」というポスターが普及した。 

 車を買う際の困難は2つあった。必要な額の金を貯めることと、行列に並ぶことだ(皆がその権利を持てたわけではない)。労働者の平均収入は800ルーブルだったが、「モスクヴィッチ401」は8000ルーブル、「ポベーダ」は16000ルーブルだった。一地区でこれらの車を買うには4年待つ必要があった。しかも、これだけの額を貯金することは現実離れしていた。1960年代には通貨改革で物価が変わった。今や平均収入170ルーブルに対し、「モスクヴィッチ」は5000ルーブル、「ヴォルガ」はその倍の値段だった。だが奇妙なことに、自家用車を買いたいという人はどんどん増えていった。1960年代にモスクワで登録された自動車の数は15万台だったが、1970年代には50万台に上った。これは業務用も自家用も含んだ数字だ。

 順番待ちに登録するシステムも変わり、1960年代初めには勤務先を通してしか登録できなくなったのだが、車の配分は不均等だった。つまり、ある企業は年間2台の車を受け取り、別の企業は年間10台の車を受け取っていた。行列に並ぶに相応しい人物は労働組合で選ばれたため、仕事のモチベーションとなった。行列は6~7年待ちに拡大した。ところで、ソ連でも一部の商品に対してローンが適用されていたが、車は現金でしか購入できなかった。 

 皆が待ち焦がれた自動車購入許可書はこのようなものだ。カードに車の受取日時と値段が記載されている。この場合だと、受取日時は1977年9月22日午前8時から午後2時までで、車種はVAZ 2106、値段は7930ルーブルだ。車体のカラーは「見てのお楽しみ」だった。工場で作られたものがそのまま手に入った。

 順番飛ばしの例もあった。「私の祖父はノリリスク採掘・選鉱コンビナートに勤めていたが、5年で21013を受け取った。隣人たちは中心部のアパートと交換しないかと提案したが、祖母がこれは孫へのプレゼントだと言って聞かなかった。15年ほどこの車に乗り、今では古いガレージで錆びついている」とロシアのあるインターネットユーザーは自動車関連の掲示板に回想を綴っている。

 「国家計画は国民の収入が増加していることを考慮に入れておらず、工場はもっと生産能力があるにもかかわらず、上から指示された数の車しか作らなかった」と別のインターネットユーザーは言う。「私の祖父はヴォルガを1975年に9500ルーブルで買った。彼は通信部隊の大佐だったが、電話を受け、GAZ工場へ新車を取りに行った。そのヴォルガを1985年に18000ルーブルで売った。つまり、10年間乗り回したのに、品薄のせいで値段は上がる一方だったのだ。祖父はと言えば、11000ルーブルで新しいヴォルガを買った。」 

 ところで、当時は車が当たるスポーツくじの「スポルトロト」が人気だった。例えば1972年には、ウラジーミル・プーチンの母親が運良く白の「ザポロジェツ」を当てている。

 なお、車の購入は問題の始まりにすぎない。ガソリンや交換部品を手に入れる必要があり(ガソリンスタンドは非常に少なかった)、車に傷を付けられないよう、ガレージにも気を配らなければならなかった。 

 ソ連における自動車(およびその他諸々)の購入の難しさについては、国外でも小話が語られたほどだ。米国のロナルド・レーガン大統領は、1988年の出版物の中でこう語っている。

 「ソ連では、車を買うために10年間行列に並ばなければならない。さて、購入者がやって来て前金を払うと、従業員が彼に言う。

 「それでは、10年後に車を取りにお越しください。」

 「午前ですか。午後ですか。」 

 「10年後のことですよ、どうでも良くないですか。」

 「そうなんですが、ただ午前にはうちに配管工が来るもので。」

 

ソ連の外車はどこから来ていたか

 初の宇宙飛行士、ユーリー・ガガーリンは、2台の「ヴォルガ」(一台は購入し、一台はソビエト指導部から贈呈された)とフランスで贈呈された未来的なスポーツカー、マトラ・ボネ・ジェットVSを持っていたことで知られている。芸能人のウラジーミル・ヴィソツキーは、水色のセダン、メルセデス・ベンツSクラスW116に乗っていたこともあれば、茶色のクーペ、メルセデス・ベンツSLCに乗っていたこともある。芸能人は、国の指導部の許可を受けて海外公演の際に外車を買うことが少なくなかった。 

 だが、珍しい車を手に入れる方法はこれだけではなかった。というのも、外国の政治家がしばしばソ連の指導部に西側製の車を贈っており、また外国の大使館用に輸入されることもあった。1960年代から70年代にはすでに、モスクワに(その後他の大都市にも)事故に遭った「用済み」の外車をソ連車相応の値段で売る委託販売店や市場が開設されていた。外車にこだわる人だけでなく、ソ連車を買う列に並べない人もこうした廃車を買い求めた。時には数年をかけて自分で車を修復した。運の良い人は、ほとんど修理の必要ない車を手に入れることができた。コネがものを言うことも珍しくなかった。

 ソ連の役者、イワン・ドィホヴィチヌイは、用済みとなって払い下げられた「外交官用」のアルファロメオ(アルゼンチン大使の妻の所有物だった)をモスクワで手に入れた時のことを語っている。「店ではまず私のために『アルファ』に古い『ザポロジェツ』と同等の値がつけられた。だがトリックは成功しなかった。他にも購入希望者がいたからだ。結局『ジグリ』の値で買わなければならなかった。」 

 その後彼はイタリア大使館の自動車整備工と親しくなった。「彼は私が『アルファ』を維持するのを手伝ってくれたが、ある時こう言った。『良かったらフェラーリ・ディーノを持って来ようか。』 もちろん私は同意した。彼はフェラーリを持って来てくれた。だがそれを委託販売店に引き渡すには、フェラーリに乗って事故に遭う必要があった。その様子を想像してほしい。70年代、サドーヴォエ環状道路。車はまばら。そこにフェラーリがやって来て、罪のないトラックに突っ込むのだ。トラックの運転手は予期せぬ出来事に髪も白くならんばかりだった。」

 1985年、ソ連は中古の外車の大量輸入に門戸を開いた。対象はチェコのシュコダ、ユーゴスラビアのザスタバ、東ドイツのトラバントだった。本格的な自動車ブームが到来した。ソビエト時代末期には、自動車の台数はモスクワだけでも約100万台を数えた。