ロシア帝国最後の皇帝とその一家からは、「物理的には」ほとんど何も残っていない。惨殺された後、遺体が焼かれてしまったからだ。1991年、ウラルのエカテリンブルク市近郊で、皇帝一家のものと思われる遺体が発見され、1998年にサンクトペテルブルクで改葬された。
しかしなお、適切なDNA鑑定が必要だった。とはいえ、いったいどこにラストエンペラーのDNAサンプルがあるか? …
そう、皇帝の血液が付着したモノがあった。サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に、ニコライ2世の血染めのシャツが保存されていたのだ。日本の警官がツァーリを殺害しようとしたときに彼が着ていたシャツだ。
極東の旅
ロシアの皇族にとっては、若い頃に海外の諸国を歴訪するのが伝統になっていた。1890年から1891年にかけて、皇太子のニコライ・アレクサンドロヴィチ大公、すなわち将来のニコライ2世は、東洋諸国を訪れた。
皇太子ニコライは、(通例のごとく)ヨーロッパではなく東洋の国々を訪問し、日本で旅を終えるべし、というのは父帝アレクサンドル3世の考えだった。随員のほか、ニコライの遠縁にあたるギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス1世の三男)が付き添っていた。
ニコライは、エジプト、インド、シンガポール、中国、そして日本を訪れた。日本では、彼の訪問が大いに期待されていた。日本の有力紙「読売新聞」は、ニコライの訪問が日本にとって「極めて重要な」行事であると書いた。
しかし、日本の対露関係は波乱含みだった。ニコライが日本に到着する半年前の1890年11月、ロシア大使館が襲われている。とはいえニコライは、日本に着くと、およそ可能なかぎりの大歓迎を受けた。接待係として皇族の有栖川宮威仁親王が常にニコライに随行した。だが、これらすべてにもかかわらず、ニコライは恐るべき事件を免れ得なかった。
大津事件
1891年4月28日(グレゴリウス暦5月11日)月曜日)の朝、ニコライ皇太子、ゲオルギオス王子、有栖川宮威仁親王は、大津の旧市街の観光に出かけた。旧市街の通りは非常に狭いので、賓客は馬車ではなく、人力車に乗っていた。
ニコライと友人たち、および日本側の随員を運ぶ約50台の人力車の列が、京都に向けて大津を通過していたとき、日本の警官の一人で、行列の警備を担当していた津田三蔵が、突然、サーベルでニコライに斬りかかった。ニコライは人力車から飛び出したが、その前に頭部を2回斬りつけられていた。ゲオルギオス王子は、津田を竹の杖で打ったが(竹の杖で津田のサーベルを受け止めたという説もある)、津田を止めることはできなかった。ようやく、人力車夫が津田の両足を引き倒し、警官が取り押さえた。
事件の顛末
事件の直後、ニコライの傷はその場で手当てされた。大公は、頭の後部に、骨に達する9㌢の傷を、額にも同様の10㌢の傷を負い、さらに手のひらと耳も負傷した。額の骨の2.5 ㌢の破片は、傷の手当ての際に除去された。
しかし、ニコライは自分は大丈夫だと述べ、気丈なところを見せた。「大したことではない」。負傷については、「この事件で私の日本人への感情と、彼らの親切への感謝の念が変わるなどと、日本人が思わなければいいが」。ニコライは有栖川宮にこう言った。
ニコライは急ぎ神戸港に連れて行かれ、ロシアの巡洋艦「パーミャチ・アゾヴァ(アゾフの記念)」のロシア人医師らが傷口を縫合した。しかし、傷は耐え難い頭痛の原因になり、ニコライは生涯苦しむことになる。
事件後の日本
日本の社会には激震が走り、津田の犯行に憤慨した。この事件が両国の関係を悪化させることを憂慮し、明治天皇自らが直ちに京都に赴き、ニコライ大公を見舞った。
ロシア皇太子の負傷に謹慎の意を表し、事件の翌日は、劇場、証券取引所、娼家は休業した。
明治天皇は、ニコライが気分を害せず日本旅行を続けることを希望すると述べた。一方、サンクトペテルブルクの父帝アレクサンドル3世は、旅を直ちに中止することを決定。ニコライは、巡洋艦「パーミャチ・アゾヴァ」に乗り込んで治療を受けた後、もう船を離れなかった。
5月6日、ニコライは23歳の誕生日を船内で祝い、翌日、ロシアに向けて出発した。しかし、彼は出発前に、津田を取り押さえた二人の人力車夫を招き、勲章と多額の報奨金を与えた。
ニコライの誕生日の祝賀の翌日、巡洋艦「パーミャチ・アゾヴァ」を明治天皇が訪問した。日本政府の一部は、ロシア人が天皇を拉致するのではと危惧し、訪問を取りやめるよう説得したが、天皇は憤然とこれをしりぞけた。
ちなみに、明治天皇の巡洋艦訪問は、天皇が外国の所有する船に乗った最初のケースとなった。
「官報」によると、「その後の朝食は、とても親密な雰囲気であった。朝食の間、皇太子殿下は、日本の天皇皇后両陛下の健康を祈り乾杯した。それに対して、殿下の賓客は、ロシア帝国の皇帝と皇后、両陛下への乾杯で応えた。朝食の終わりに、皇太子殿下と天皇陛下は、心のこもった別れの挨拶をされ、天皇陛下は巡洋艦をお去りになった」
ニコライはその後、明治天皇に書簡を送った。「天皇皇后両陛下が示されたご厚意を決して忘れません。皇后陛下をお訪ねできなかったことを遺憾といたします」
日本社会は津田がやったことを嘆き悲しんだ。ニコライが滞在していたロシアの巡洋艦には、謝罪と遺憾の意を込めた約2万4千通の電報が送られてきた。
この事件は、日本人の自殺さえ引き起こした。若い女性の裁縫師、畠山勇子が、死をもって公の謝罪の意を表すとして、京都府庁前でかみそりで喉を切り裂き、間もなく病院で亡くなった。
警護の失敗の責任をとり、西郷従道内相と青木周蔵外相が辞任した。
津田三蔵とは何者か?彼の目的は?
津田三蔵の犯行の動機は、ほとんど不明のままだ。藩医の家に生まれ、西南戦争に政府軍の下士官として従軍した彼は、サムライをもって任じており、熱烈な愛国者で、明治以前の日本における排外的感情が脳裏に刻み込まれていた、と思われる。だから津田は、日本人がこの「外国人客」に与えた名誉と敬意のすべてに憤慨し、仏教寺院の訪問中に靴を脱がなかったニコライに怒ったのかもしれない。
さらに、ニコライとギリシャのゲオルギオスが日本侵攻を準備している外国のスパイだと、津田は疑っていた。これらすべてがいっしょになって津田の心をかき乱し、ニコライを襲わせたのだろう。
津田は裁判で無期徒刑の判決を言い渡された。ロシア政府はこの判決に「完全な満足」の意を表明した。しかし、同年9月、津田は獄死した。自ら餓死したとも噂された。
後にニコライは日記の中で、これは、「一人の狂信者がやった不快事」であり、その後で日本人に腹を立てたりしたことはないと書いたが、ニコライの大臣たちは、彼が日本に対しどちらかというと警戒的な態度をとるようになったことに注目した。
大津事件は、1904年~1905年の日露戦争に関連してしばしば言及されてきた。一部の歴史家は、事件後のニコライの日本人観を考えると、彼はこの戦争に反対するよりは同意する方が簡単だったろう、とみている。