我々ロシア人にとって、ネットフリックスの『ラスト・ツァーリ』を真剣な作品として受け取るチャンスは、誰かがこの番組のウェブサイトのスクリーンショットを投稿した時点で消え失せた。
第一印象にやり直しは利かない。ネットフリックスが視聴者に与えたかった第一印象は、よく考証された歴史的に正確なドラマというものだったはずだ。だがいきなりレーニン廟が存在する「1905年」の赤の広場を見せられた日には(レーニンが亡くなるのは20年後だ!)、「歴史的な正確さ」に別れのキスをせねばならない。映像はゲッティイメージズから買ったものらしい。インターネットに何百枚という写真が転がっているこのご時世、写真の入手に手を煩わせる必要はないということなのだろう。この忌々しい初歩的なミスが、同番組に眉をひそめるべき最大の要因であると思ったら大間違いだ。驚くなかれ、このドラマは次から次に驚くような間違いを炸裂させる。ロシア史を少しかじっただけの人でも分かるほどだ。
1905年のレーニン廟という極めて荒唐無稽な要素は、この番組の輝かしいエンブレムになるかもしれない。荒唐無稽な要素はこれだけにとどまらないからだ。
『ラスト・ツァーリ』は極めて野心的なプロジェクトだ。制作会社は、「壮大な映画撮影術とアクションドラマ、高級ドキュメンタリーとを掛け合わせたテレビの新ジャンル『メガドック』」を生み出すことを目指しているヌートピアで、6話から成るドラマはロシア最後の皇帝、ニコライ2世の全治世――1894年の戴冠式から1918年に暗殺されるまで――をカバーしている。
これはロシア史のみならず世界史においてもとりわけ重要な時代である。ニコライ2世のロシア帝国を崩壊させた1917年のロシア革命は、ソ連の誕生につながった。革命がなければ世界は大きく違っていただろう。世界的な共産党運動は起きず、ロシアという案山子が西側諸国に影を落とすこともなかった。アドルフ・ヒトラーが世界的な恐怖につけ込む機会もなかっただろう。考え得る影響はきりがない。
つまり、1917年の革命に先立つ出来事は、近現代史全般を理解する上で決定的な重要性を持ち、極めて複雑であり、これをエンターテインメントとして描こうとする試みは常に深刻な困難に直面する。『ラスト・ツァーリ』はその困難に挑んだが、結果は悲惨なものとなった。
間違いだらけ
腹立たしいほど歴史的に不正確な点から始めよう。この番組は、人気のある神話、例えば皇室の寵愛を受けた謎の人物、グリゴリー・ラスプーチンの伝説を盛り込み、皇后アレクサンドラと彼との間に関係があったかような描き方をしている。だがこうした伝説はさておき、きちんと歴史考証したドラマを作るという努力を完全に吹き飛ばす、とんでもない間違いがある。こうしたミスが、いたるところで無数に見られる。
筆者のようなアマチュア歴史家でさえ、こうした間違いを見逃すわけにはいかない。ナレーターはドゥーマを「選ばれた政府」と呼ぶが、実際にはこれは行政機関ではなく立法機関、すなわち議会だ。せめてこの単語をググっていれば、制作陣は現在のロシア下院が同じ名称で呼ばれていることに気付いたはずだ!
いっそう腹立たしい荒唐無稽な間違いは、ロシア宮廷に住んでいたモンテネグロ王女たち、アナスタシアとミリツァを、「黒い王女たち」という、実際には存在しないあだ名で呼んでいることだ。どうもロシア語で「黒い」を意味するチョールヌィエ(чёрные)と「モンテネグロの」を意味するチェルノゴールスキエ(черногорские)を混同したらしいが、この「メガドック」を作る上で一人でも良いからロシア語母語話者に(もちろん歴史家にも)相談しなかったのだろうかと疑問に思ってしまう。非常に基本的なことにさえ全く注意が払われていないのは、正直言って呆れるばかりである。
『ラスト・ツァーリ』には時々、ただ番組を面白くしたいがために、実際にはありそうもないことをいくつか練り込んでいるように思える場面がある。例えば、ラスプーチンが首相の娘を口説いたり、ニコライの娘である皇女マリアが見張りのボリシェヴィキ党員とよろしくしたりといった場面だ。大変なインテリとして描かれる熱心な革命家、イワン・カリャエフは、射殺される前に「ファ◯ク・ザ・ツァー!」と叫ぶ。第一に、実際には彼は絞首刑に処された。第二に、当時のロシアのインテリの語彙には、そのような表現はなかった。だが誰が気にするだろうか。皇族でさえ、あらゆる場面で「ファ◯ク」や「シ◯ト」を連発している(実際のところ、私もこのドラマを見ながらこれらの語を連発した)。
最大のずさんさ
『ラスト・ツァーリ』は、その主たる強みであるはずのフォーマットに毒される結果となっている。このドラマは、役者が演じるニコライとその家族、ラスプーチン、その他の歴史上の重要人物が生きたニコライの治世と、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ(『1613年から1918年までのロマノフ家』(The Romanovs 1613–1918)の著者)をはじめとする歴史家が視聴者にロシアで起きた出来事の全体像を提示するナレーション形式の番組とを組み合わせようとしている。
この目標は一石二鳥を狙ったもので、愛すべき登場人物と性愛、暴力の描写によって、ストーリーをゲーム・オブ・スローンズのように見せよう(すまないがロシア帝国にドラゴンはいなかった)とする一方で、真面目な教育番組のようにも見せようとしている。その結果、ニコライが妻を熱愛する(あるいはラスプーチンが一瞬ですべてを無茶苦茶にする)場面に、ロシアがずるずると経済危機の深みにはまっていく様を解説するモンテフィオーリの語りが続くという、ちぐはぐな番組ができあがった。これらの2つの世界はまるでうまく機能し合っていない。語りが断片的で混沌としたものになってしまっている。
ステレオタイプと過度の単純化
ネットフリックスのドラマには、ロシアでクリュクヴァ(「クランベリー」)と呼ばれるもの、つまりロシアとロシア人、彼らを取り巻く状況を過度にステレオタイプ化した描写が大量に盛り込まれている。農民の暮らしはディズニー的なパラダイスとして描かれ、二大都市は金や宝石に溢れる宮殿で彩られ、邪悪なロシア人(主にボリシェヴィキ)は酒を飲みまくる、といった具合だ。何か新しいものを期待していたのだが。
またこのドラマは、自分で抱え込んだ負担の重みに耐えきれていない。ヨーロッパで最も悲劇的な運命を辿った皇室の最後を、たった6話で描ききるのにはさすがに無理がある。重要人物は、「ロマノフ家の善良な民主化助言者」、「ロマノフ家の邪悪な専制政治助言者」、「容赦ない革命家」といったように、過度に単純化され、戯画化されている。
総評
『ラスト・ツァーリ』について唯一評価できる点があるとすれば、それは制作者らの登場人物に対する態度だ。彼らはニコライ2世を、悲劇的なまでに国家の統治に向いていない、か弱い善意の人として描いている。制作者らはニコライの家族に共感を抱きつつ、彼らの統治能力の欠如にこれ以上我慢ならないという人々の視点にも立っている。皇族の処刑を指揮したボリシェヴィキ党員、ヤコフ・ユロフスキーでさえ、名誉ある、規律正しい人物として描かれている。これこそがロシア革命とロシア内戦の最大の悲劇だった。どちらの側にも良い人間はいた。だが、時代が彼らを、情け容赦なく殺し合う残酷な敵同士に変えてしまった。筆者の考えでは、このことを描き出すという点については『ラスト・ツァーリ』は成功している。
とはいえ、この作品に対する筆者の総評は、「非常に悪い」というものだ。数多くの歴史的に不正確な点、全体的なずさんさ、非常に長く込み入ったストーリーを簡潔にまとめようとする試みが、アイデアとしては決して悪くないこのドラマを駄目にしてしまっている。制作者らが今回の失敗に学び、将来、この壮大で恐ろしい時代を、相応の敬意を以て見つめ直してくれることを願いたい。