1. レーニン
ウラジーミル・レーニンは疑いなく最も有名なロシア人革命家だ。彼は理論家の技術を政治家や国家指導者のそれと融合させた。彼は、ロシア社会民主党から分党した勢力――ボリシェヴィキ――が1917年10月に政権を掌握することを可能にした人物だ。レーニンの力によってボリシェヴィキは革命後も政権を維持し、続くロシア内戦では外国勢力の支援を受けた多数の政敵らに対し勝利を収めることができた。
だがボリシェヴィキは、大衆の不満が爆発した結果1917年2月にニコライ2世が廃位された時点では、まだまともな政治勢力とは言えなかった。二月革命後のロシアに4月に亡命先から帰還したレーニンが見たのは、誕生間もない「ブルジョア的」暫定政権の政策に追随する弱小政党だった。彼は全力を注いで、来るべき新たな国家組織「労農兵代表ソビエト」に権限を与えることを狙った新政策を推し進めた。彼は従来の国家機構にソビエトを並置し、暫定政府に対する武装蜂起という考えを党に支持させた。後に彼は大変な苦労をして反乱を組織し、ロシアの新しいソビエト政府、すなわち人民委員会議の議長となった。
レーニンが1924年に死去したさい、当時ロシアで最も傑出した作家の一人であったマクシム・ゴーリキーはこう記している。「敵対勢力の中でさえ、正直にこう認める者がいる。レーニンという人物を失ったことで、世界は同時代のどの偉人よりもひときわ著しくその天性の才能を発揮した者を失ってしまったのだと。」
2. スターリン
ヨシフ・スターリンは、1920年代から1950年代までソ連政府を率い、粛清、強制的な集団化、工業化を含む政策を容赦なく推し進め、第二次世界大戦で勝利をつかんだことで最もよく知られている。しかしそれ以前、ジョージアの靴職人の息子で神学生だった彼は、何年もの間コーカサスで革命運動を行っていた。1900年代初めに神学校を去って地下活動を開始して以後、彼は社会民主労働党の党員となり、ストライキの扇動からプロパガンダの宣伝まで、ありとあらゆる革命活動に関わった。
スターリンが1905年から1907年の第一次ロシア革命期に、コーカサスでのボリシェヴィキの没収作戦を担当していたという噂もある。没収活動とは実のところ小規模な銀行強盗で、没収した金は革命運動に充てられた。しかし、スターリンがこの活動に関与していたことを証明する文書はない。
自身の革命活動の黎明期、スターリンは18ヶ月間獄中で過ごした。それから7度シベリア送りとなった。最後の流刑は1913年から1916年末まで続いた。彼のペトログラードへの帰還はほぼ二月革命と重なったが、この革命の後彼は次第にレーニンに接近し、政治家としてのキャリアを積んでいくこととなる。 伝記によって部分的に決定づけられる明らかに屈強な性格とは裏腹に、彼は人を魅了する力も持っていた。1930年代にこのソビエト指導者に会ったH. G. ウェルズは、「彼ほど公平で公正で正直な人物は見たことがない。こうした資質を持ち、魔術的で邪悪なところが一切ないために、彼はロシアで揺るぎない主導権を握っているのだ」と記している。
3. トロツキー
1920年代から30年代のスターリンは政敵を一掃することに成功したが、革命当初は、彼は影響力の点でもう一人の傑出した革命指導者レフ・トロツキーの後塵を拝していた。スターリンはトロツキーをソ連から追放し、その指導者としての影響力を排除するために1940年に彼の殺害を命じた張本人だが、1918年11月には革命においてトロツキーが果たした役割を次のように表している。「蜂起の組織に関するすべての実務は、ペトログラード・ソビエトの長である同志トロツキーの迅速な決定の下でなされた。守備隊が急速にソビエトの側についたことに関しては、党は誰よりもまず同志トロツキーに恩義があると言って間違いない。」
トロツキー自身は、革命における自分の役割はレーニンが果たした役割には到底敵わないと考えていた。彼は後にこう記している。「1917年に私がペテルブルクにいなくても、いずれにせよ十月革命は起きただろう。レーニンがあの場で指揮を執っていたのだから。もしレーニンも私もペテルブルクにいなければ、十月革命は起きなかっただろう。」
1917年に革命を成功させるまで、トロツキーの革命活動は紆余曲折を経ていた。1905年にはサンクトペテルブルクに誕生したロシア初のソビエトの議長を務めた。彼は当局に起訴されてロシアを去り、ツァーリが退位した後にようやく帰国できた。十月革命後彼は外務人民委員に就任し、革命後に勃発した内戦で敵対するあらゆる軍事勢力を粉砕することになる赤軍を組織する上で重大な役割を果たした。