1. 19世紀末のロシアの女性は、高等教育を受けることを熱望していた。しかし祖国では叶わず、多くが外国へ渡った。一方で村立学校の数は増加し続け、男性だけでは教員数が足りなくなっていた。皇帝アレクサンドル2世は女子教育に反対だったが、それでも周囲の説得により、女性のために大学のような教育機関を創設する必要性を認識するようになった。
2. 1878年9月、サンクトペテルブルクに女子大学が開校した。最初の校長は、デカブリストの叔父を持つコンスタンチン・ベストゥージェフ=リューミン教授だった。ここからベストゥージェフ女子大学という呼称が生まれ、卒業生はベストゥージェフカと呼ばれるようになった。
3. 女子大学の誕生に大きな貢献をしたのが、社会活動家のナデジダ・スタソワだ。彼女はロシアにおける女性運動を指揮し、貴族階級の女性が自分で生計を立てることができるようにするという目標まで達成した。彼女はスターであり、多くの受講生にとって模範的存在だった。彼女は早くも1870年に、ペテルブルクで初の男女共学の公開講義、ウラジーミル講習会の開講を実現した。
4.女子大学の受講は有料で、入試はなかった。受講するには21歳以上で、かつギムナジウムを修了していることが要件だった。倍率があまりに高い場合は、ギムナジウムの卒業証書の評価を参考に選抜が行われた。地方から出て来たベストゥージェフカたちは部屋を借りる必要があったが、2人で一部屋を借りることが多かった。そのほうが安く済んだからだ。
5.この女子大学を卒業した後に同学の教壇に立つようになった初の受講生は、ナデジダ・ゲルネトだ(写真は彼女の幾何学の授業の様子)。またゲルネトは、ロシアで博士号を取得した2人目の女性数学者となった(一人目はソフィア・コヴァレフスカヤ。彼女は高等教育を受けるため偽装結婚をして国外で勉強をした)。
6.受講生のエリザヴェータ・ディヤコノワはロシアで最初のフェミニストの一人だが、多くの女性たちが活発に社会生活に参加し、自由主義的で革命を志向する大学生らと接近していたことを回想している。しかし、皆が思想的理由で交流していたわけではなかった。たいていは結婚目的だった。
7.ベストゥージェフカたちは、科学や政治だけでなく芸術にも関心があった。自分たちの演劇サークルさえ持っていた。
8. 1886年、国家は女子高等教育の問題を見直すことを決め、数年間女子大学への受け入れは中断したが、間もなく再開した(写真はゲルス教授のゼミナール)。
9. 1903年、女子大学から初めて女性化学者が卒業した(同年にはマリア・スクウォドフスカ=キュリーが夫とともに放射線研究でノーベル賞を受賞した)。1911年、ニコライ2世は女子大学の卒業生が男子学生と平等な条件で大学の学位を取得することを許可した。これが真の突破口となった。
10.女子大学が存続した40年の間に、約1万人の女学生がここで教育を受けた。革命後ベストゥージェフ女子大学はペトログラード大学の一部となり、後に完全に吸収された。
11.ところでイギリスでは、女子高等教育専門学校の誕生はベストゥージェフ女子大学の開校の数年前の1873年で、ケンブリッジ大学を基礎にガートン・カレッジが開かれた。開校時の在学生は5人だけだった。1879年には同様の教育機関がオクスフォードに現れた。
12.アメリカで女性が高等教育を受けられるようになったのは1853年で、フランスでは1863年だ。チューリッヒ大学ではすでに1840年代から女子受講者を受け入れていた。ドイツでは1896年になってようやく女性が習熟度を測る試験を受けられるようになり、その後大学の講義を受講することが許された。女性の高等教育の権利が確立するのはワイマール共和国時代の1913年のことだ。