キノコ的人格
まずクリョーヒンは、革命一般の本質、それからメキシコへの旅について、とりとめのない話を始めた。それによると彼は、メキシコの古代寺院で、1917年の事件(ロシア革命)を彷彿とさせるフレスコ画を見たという。そこから彼は話題を、ペルー出身のアメリカの作家・人類学者、カルロス・カスタネダに移した。カスタネダは、中米インディアンの慣習を記述しているのだが、彼らは、特定の種類のサボテンから調製された向精神性飲料を飲んでいる、と。
「カスタネダは、サボテンのほかに、幻覚作用をもつキノコ『マジックマッシュルーム』を特別なモノとして描いている」。クリョーヒンはこう続けた後、レーニンの手紙に話を移す。これはマルクス主義者、ゲオルギー・プレハーノフに宛てられたもので、こんな一節がある。
「昨日、私はキノコをたらふく食べ、すばらしい気分になった」。
ロシアによく生えているベニテングダケには幻覚作用があると、クリョーヒンは指摘したうえで、レーニンはこのキノコを食べて、何らかのサイケデリックな、向精神作用を体験したのではないかと推測した。
そして、レーニンだけでなく他のボリシェヴィキもこの種のキノコを食べた、とクリョーヒンは主張した。「十月革命は、長年、幻覚を起させるキノコを食べていた人々によって引き起こされた」と彼は大真面目な顔で言った。
「ベニテングダケのアイデンティティーは、人間のそれよりはるかに強力であるため、レーニンの人格はキノコの性格に取って代わられた」。こう彼は結論づけた。
ちょっとやりすぎた悪戯
この驚くべき発言の後、番組はさらに20分間続いた。クリョーヒンとショーロホフは、レーニンとキノコの“近しい関係”について“証拠”を次々に挙げた。それは、レーニンがキノコ採りに熱中していたことから始まって、レーニンが演説した装甲車の構造と、ベニテングダケの地中の菌糸体のそれが似ているという“比較論”にまで及んだ。
ついには、ソ連の槌と鎌のシンボルが、実はキノコとキノコ採りのナイフを組み合わせたものだという珍説まで飛び出すと、二人とも笑いをこらえることができなかった。だが、その笑いでさえ、何千、何万もの人々が番組を鵜呑みにすることを妨げなかった。
青天の霹靂
「もしクリョーヒンが他の誰かについて話していたなら、彼の言葉は単に冗談として聞き流されただろう。しかしレーニンだ!どうして彼について冗談など言えようか?――しかも、よりによってソ連のテレビ番組で」。ロシアの人類学者、アレクセイ・ユルチャクは、ソ連の多数の視聴者が当惑した理由をこのように説明した。
ユルチャクの強調するところでは、視聴者は必ずしもレーニンがキノコであると信じたわけではない。だが、クリョーヒンのことを真面目な研究者だと勘違いして、テレビ局に電話や手紙をよこし、ボリシェヴィキ指導者はキノコか否か詰問した。
番組の司会者でクリョーヒンといっしょに出演したショーロホフは、後にこう述べている。
「このショーが放送された翌日、年配のボリシェヴィキたちからなる代表団が、イデオロギー問題を担当していた地元の共産党指導者のもとへ行き、答えを求めた。『レーニンはキノコか否か?』。その女性指導者は怒って答えた。『否!哺乳動物は菌類ではあり得ない』」
ショーロホフによると、彼とクリョーヒンは、こんな糞真面目な答えはかなりショックだったという。もっとも、これもまた、 ショーロホフとクリョーヒン(1996年に死亡)がテレビ番組の中でやったように、単に話を面白くした粉飾かもしれないが。
ソ連の不条理
こういうアイデアを思いついたのはクリョーヒンだった。彼には、奇想天外な山師的才能があった。
1980年代後半から90年代初めにかけて、ソ連のメディアは変わりつつあった。ジャーナリストはより自由になり、なかにはナンセンスなことをしゃべる者もいた。
クリョーヒンの未亡人、アナスタシアは当時をこう振り返っている。
「あるとき私たちは、詩人セルゲイ・エセーニンの死をめぐるテレビ番組を見ていた(エセーニンは1925年に自殺している)。司会者は、まったく荒唐無稽な“根拠”にもとづき、エセーニンは実は殺されたということを“証明”してのけた。番組の出演者たちは、詩人の葬儀の写真を見せてこう言った。『ご覧ください。こちらの男はこっちを向いているのに、そっちの男は別の方を向いている。つまり、エセーニンは殺されたということです』」
クリョーヒンはこれを見ながら妻にこう言ったという。「ほらね、どんなことでもこんな類の“証拠”で証明できるんだよ」。で、彼自身もそれを実行したわけだ。
一方、ユルチャクは説明する。どこの国民も、事実を確かめずにメディアを信用しがちである。この番組の欺瞞とそれに対する人々の反応は、そのことを示す好例であると。
「メディアに何かが出れば、そこには何かがあるはずだというわけ」とユルチャク。
要するに、クリョーヒンの挑発は、もし自信満々にやれば、どんな荒唐無稽なナンセンスでも人々を容易に手玉にとれることを、滑稽に証明してみせたものだと言えよう。