1960年1月 17日から 3 月7 日に漂流した船に乗っていたソ連兵(左から右)-アスハト・ジガンシン、フィリップ・ポプラフスキー、アナトリー・クルチコフスキー、イワン・フェドトフ。
ルドルフ・クチェロフ撮影/Sputnik「9時頃嵐が強まり、ワイヤロープは切れ、艀(はしけ)は岩場に押し流された。(…)船は広い海に引き戻され始めた。3時間後、燃料が尽きそうだと知らされた。私は艀を着岸させることにした。リスクが高かったが、それ以外に道はなかった。一度目は失敗し、岩に衝突した。(…)
奇跡的に船は壊れず、岩の間を抜けることができた。ただし船体に穴が開き、機関室に水が入り始めた。岩場の向こうに砂浜が見え、私は艀をそちらに向けた。もう船底が地面をこすり、着岸まであと一歩というところで、燃料が切れ、エンジンは停止し、広い海へと押し戻された。(…)」(ロシア語)
アスハト・ジガンシン軍曹は数年前、1960年1月17日から3月7日までの49日間に及ぶオデッセイの始まりをこう回想している。
この出来事が起きたのはロシア極東、クリル列島のある島で貨物船の荷卸しをしていた時だった。
グレコフ・スタジオのゴルペンコとグレコフが作った「あらしの海にて」という絵画の複写物。
ルドルフ・クチェロフ撮影/Sputnik乗組員は4人だけ(ジガンシンと兵士のフィリップ・ポプラフスキー、アナトリー・クルチコフスキー、イワン・フェドトフ)で、彼らは小さな艀T-36で1500マイルも漂流した。彼らの無線は壊れていて使えなかった。船体の穴はすぐに塞ぐことができたが、より深刻な問題があった。食糧がなかったのだ。パン一つ、いくらかの豆とキビ、バケツ一杯のジャガイモ、脂肪の入った瓶。あとはエンジン冷却用の水がいくらかあり、錆が混ざっていたが、塩水ではなかった。食糧はこれですべてだった。
彼らは間もなく、自分たちがすぐには発見されないだろうことを悟った。ジガンシンが、彼らのいる水域でミサイル実験が予定されており、そのため船舶の航行が禁止されていることを伝える新聞記事を見つけていたのだ。そこで4人は厳しい食事制限を始めた。初め、彼らは一日に一度だけ食事をとった。各自一杯のスープを飲んだ。スープはジャガイモ2個とスプーン一杯の脂肪で作った。一日に3度少量の水を飲んだ。
グレコフ・スタジオのゴルペンコとグレコフが描いた「夕食を作っているアスハト・ジガンシン」の複写物
Sputnikだが、2月23日までに食糧は尽きた。魚を捕まえようとしたが無理だった。船は海流に流されており、魚がいなかったのだ。周囲を泳いでいるのは体長1メートル半のサメくらいだった。そこで4人は革のブーツやベルト、アコーディオンの革の部分を茹でて食べた。しまいに彼らはひどく衰弱し、幻覚を見るようになった。
ところが、おそらく最も特筆に値することに、このひどい状況の中でも彼らはモラルを保った。「最後までパニックや鬱は一切なかった。のちに、米国から欧州へ我々を移送してくれたクイーン・メアリー号の技師が私にある話を聞かせてくれた。それによると、彼自身も同じような目に遭ったのだという。強い嵐の後船の無線が2週間使えなくなった。乗員30人のうち数人が死んだが、飢えのせいではなく、絶えず食糧や水を求めて争ったためだったそうだ。(…)」とジガンシンは述懐する。艀T-36ではそのようなことは起きなかった。食糧は均等に分け合い、皆選り好みもしなかった。
異常なほどやせ衰えたアスハト・ジガンシンとフィリップ・ポプラフスキーがアメリカの船員に状況を伝えている」。1960年。
Sputnik3月7日には、やかん半分の水、革のブーツの片方、3本のマッチしか残っていなかった。幸い彼らはこの日に米軍の空母キアサージに発見された。初め、ソ連兵らは艀を離れようとせず、アメリカ人から必要な燃料と食糧だけもらうことを望んだ。
しかしその後考え直し、結局空母に乗り込んだ。食事の後彼らは眠り込み、数日間目を覚まさなかった。ようやく目覚めたとき、彼らは自分たちが艀を失い、米軍の空母で時を過ごしてしまったことに気付き、恐怖に駆られた。帰国したら逃亡容疑をかけられるのではと不安になったのだ。
サンフランシスコの観光で写真を撮られているアスハト・ジガンシン、フィリップ・ポプラフスキー、アナトリー・クルチコフスキー、イワン・フェドトフ。
ルドルフ・クチェロフ撮影/Sputnikだがそれも杞憂だった。すぐにソ連の主要各紙が「死より強し」という見出しの記事を出した。彼ら4人のことだ。彼らは米ソ両国で英雄となった。彼らはサンフランシスコ(市長が象徴的な街の鍵を授与した)、ニューヨーク、そしてもちろんソビエト連邦で英雄として盛大に歓迎された。
彼らはモスクワで国防大臣に迎えられ、その後各地で引っ張り蛸になった。彼らの顔はあらゆる新聞の一面や雑誌の表紙を飾った。彼らのことを歌った曲がいくつも現れた。その一つは、当時絶大な人気を誇ったシンガーソングライターのウラジーミル・ヴィソツキーが作った。「ジガンシン・ブギ」というフォークソングも現れ、「ジガンシンが2つ目のブーツを食べた」という歌詞が出てくる。兵士らの試練を描いた映画も撮影された。
モスクワ市立会議の行政委員会の委員長、ニコライ・ブルヴニコフ(真ん中)がをアスハト・ジガンシン、フィリップ・ポプラフスキー、アナトリー・クルチコフスキー、イワン・フェドトフ歓迎している。英雄たちがモスクワのヴヌコヴォ空港に着いた時。
ウドヴィチェンコ撮影/Sputnik彼らは真の英雄となり、しばらくブームが続いた。だが翌年4月にガガーリンの宇宙飛行が成功したことでブームは終わりを告げた。4人の兵士の苦難も、世界初の宇宙飛行士の名声を前にしてはかすんでしまったのだった。
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