1978年にアフガニスタンで革命が起き、ソ連軍が介入するそのはるか前に、ソ連軍はすでにこの地で戦っていた。密かにこの国の服を着て、しかしロシア式に「ウラー!」と叫びながら、彼らは1920年代後半の内戦に積極的に関与した。
アフガニスタンの政治情勢は、ソ連の中央アジア周辺の安全保障に直接影響したため、常にソ連指導部から注視されていた。だから、1929年に同国国王アマーヌッラー・ハーンが革命家たちによって退位に追い込まれ、内戦が発生したとき、ソ連は傍観できなかった。
一方から見れば、支配層と戦う民衆がいた。世界各地でこうした闘争は常にソ連の支持を得た。しかし他方では、アマーヌッラー・ハーン治下のアフガニスタンはソ連と良好な関係にあり、両国は経済・軍事協力を拡大していた。
アフガニスタン国王は、中央アジアの反ソビエト勢力(バスマチ運動)をうまく抑えていた。これらの勢力は、ロシア革命後の内戦の間に、ソ連からアフガニスタンに逃れ、多数の襲撃でソ連領を脅かした。ソ連は、こうした状況をなるべくうまく活用しようとしていたから、ここでの選択は難しいものとなった。
誰を支持すべきか?
驚くべきことに、ソ連は、「水運び人の息子」、ハビブッラー・カラカーニーが率いる農民の革命的民衆をすぐさま支援しようとはしなかった。ゲオルゲス・アガベコフは、1920年代のアフガニスタンでソ連の諜報員をしており、1930年に西欧に逃亡したが、その彼によると、ソ連では、この紛争でどちら側を支持すべきかについて意見が割れていたという(ゲオルゲス・アガベコフ著『OGPU:ロシアの秘密のテロ』、1931年)。
ソ連の秘密警察「OGPU」は「KGB」の前身だが、広範な民衆を代表する革命家を支持することを強く求めた。OGPUは、ハビブッラー支援がアフガニスタン全体のソビエト化に益すると考えていた、とアガベコフは言う。
しかし、外務人民委員部(1946年以降はソ連外務省)は、これとは反対の意見だった。すなわち、ハビブッラー・カラカーニーはタジク人であり、アフガニスタン北部に住む数百万人のタジク人の強い支持を受けているが、この地域はソ連に隣接している。もしハビブッラーが勝ち、その権力を強化すれば、彼は必然的にその影響を、ソ連の中央アジアの共和国に広げようとするであろう。そうなれば、ソ連・アフガニスタン国境は不安定になる、と。
ソ連の外交官たちの意見は的中した。ハビブッラーは、バスマチ運動の指導者、イブラヒム・ベクと連携し、バスマチによるソ連への襲撃は著しく増えた。ハビブッラーに関するもう一つのマイナス要因は、彼がイギリスから積極的に支援されていたことだ。
こうして、ソ連指導部は、アマーヌッラー・ハーンを軍隊を送って支援し地域の安定を回復させる道を選んだ。
秘密作戦
ソ連は、アフガニスタンの内戦への軍事介入を世界に公然と示したいとは思わなかった。そこで同国での軍事作戦に参加した2000人以上の赤軍兵士は、同国の兵士の軍服を着た。彼らを指揮したのは、アフガニスタンの元大使館付武官ヴィタリー・プリマコフだ。彼は、「カフカスのトルコ人」で将校のラジブ・ベイという触れ込みだった。
この部隊には、アリ・ゴラム・ナビ・ハーンが率いるソ連・アフガニスタン評議会が同行し、部隊に合法的地位を与えた。評議会は、国王を支持する部隊だというふりをした。つまり、国を去ることを余儀なくされたが、今や帰国し国王のために戦う用意があると。
1929年4月15日、ソ連軍部隊は、機関銃と大砲を備えた重武装で、アフガニスタン領内に進軍した。
空軍に援護されて、部隊はアフガニスタン国境の守備隊を撃破し、さらに同国北部のバルク州に進撃、主要都市マザーリシャリーフを目指した。また、これと同時に、退位させられていた前国王アマーヌッラー・ハーンは、同国南部のカンダハール(首都カーブル〈カブール〉から逃れた後、ここに潜伏していた)を発ち、1万4千人の軍隊とともに、首都へ向かっていた。首都はハビブッラーに占領されていた。
ソ連の兵士たちは、マザーリシャリーフを襲撃する際に、アフガニスタン人のふりをしなければならないことを忘れて、ロシア式に「ウラー!」と叫びながら、攻撃を続けた。
マザーリシャリーフがソ連軍に占領されると、アフガニスタン人は侵略者に対するジハード「聖戦」を呼びかけ、都市内のソ連軍を包囲した。このプリマコフ率いる部隊を助けるために、 「ザリム・ハーン」(実はソ連軍の騎兵隊司令官イワン・ペトロフ)が指揮する、400人からなる第二の部隊がアフガニスタンに入った。
ソ連の両部隊は、包囲をうまく突破し、ハビブッラーとバスマチの部隊を撃破し、バルク州を通過して、一路首都カーブルを目指した。
ところが…5月22日、悲報がソ連軍に飛び込んでくる。アマーヌッラー・ハーンの部隊がカーブル近郊で惨敗を喫し、彼自身も国外に逃亡したという。こうして、ソ連軍がアフガニスタンに留まる理由はなくなり、直ちに帰国した。
アフガニスタンでの軍事作戦中、ソ連軍は8千人以上の敵兵を殺し、自軍の兵士120人を失った。ソ連の軍事関係文書では、この作戦は、ソ連・中央アジアの「盗賊」との闘いとして言及されていた。歴史的な文献にこの作戦について書くことは禁じられていた。