百年以上前、田舎娘がいかにロシア初のフェミニストになったか

歴史
アレクサンドラ・グゼワ
 ロシアの女性はたいてい、西欧から流入した「進歩的な思想」は、遅かれ早かれ受け入れてきたように見える。ロシアには、自前の女性参政権論者、フェミニズム運動、そして多くの女性革命家がいた。とはいうものの、ロシアのフェミニズムのルーツは、実際はどこにあったのだろうか?これは、フェミニズムの観念を知らなかったのに、独自にそうした思想に達した女性の物語だ。

 エリザヴェータ・ディヤコノワ(1874~1902)は、どうも自分が好きになれなかった。いつでも彼女は、自分は異性にまったく魅力がないし、男が自分に恋することなどないと思い込んでいた。で、彼女は魅力的な妹を羨んでおり、妹が学業を続けずに結婚したときは失望した。

 リーザ(エリザヴェータの愛称形)は、11歳の時から死に至るまでずっと日記をつけており、彼女が謎めいた死を遂げた後、1905年に、日記、メモ、手紙、詩などがまとめられて、『ロシアの女性の日記』の表題で出版された。

 1902年、リーザは、全裸死体で、オーストリアのチロルの山中で発見された。死体のそばに、彼女の服がきちんと束ねられていたので、死因に関する公式の説は自殺だが、実際に何が起こったのかは、まだはっきりしていない。

 ロシアの現代作家、パーヴェル・バシンスキーは、ベストセラーとなった評伝『レフ・トルストイ:楽園からの逃走』などで知られるが、リーザの物語と、巧みに表現された、洗練された思想をふくむ、この日記にたいへん興味をそそられ、リーザについての本を書いた。『私を見て:リーザディヤコノワの秘められた物語』がそれで、今秋、「エレーナ・シュビナ出版所」から出た。

 

必読書だったレフ・トルストイの影響

 19世紀後半のロシアでは、フェミニズムをも含め、何か大きなことに取り組もうとすれば、その第一歩は、レフ・トルストイを読み、それと対決することだと考えられていた。たとえ、偉大な事業を達成できなくても、努力に費やした時間を後悔することはないと。

 リーザディヤコノワは1874年生まれで、同時代の多くの人と同様に、レフ・トルストイのファンだった。この作家は、議論の余地なく大きな権威をもっていた。

 当時、とりわけトルストイの著書の一つ、中編『クロイツェル・ソナタ』(1890)が、論争の的になり、大きな評判を呼んだため、読者には魅力があった。この作品は、検閲で公式に発禁本となったので、愛読者は、しばしば大きなリスクを冒しつつ、原稿のコピーを配布し、広めた。

 さて、この小説の筋は――。結婚前に、いろんな女と関係し「堕落した生活」を送っていた男が、「清純な処女とロマンチックな恋愛をして」、結婚生活に入る。だが、夫婦関係は次第にどうしようもなく悪化していく。そして、妻が、自分の音楽教師のヴァイオリニストに好意をもつようになると、夫は妄想的嫉妬を燃やす(とくに、妻の伴奏で音楽教師がベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」を演奏する場面が印象的だ)。ついに夫は、妻と教師がいっしょにいるところを見つけて、ナイフで刺殺してしまう…。

 『クロイツェル・ソナタ』は、19世紀末の若者に、今では信じられぬほどの影響をおよぼした。「主な問題は嫉妬ではなかった。トルストイは、キリスト教の伝統によって祝福された男性と女性の結合について判断を下した。すなわち、結婚に肯定的な意味があることを否定した」。こうバシンスキーは書いている。

 リーザはこっそりこの本を読み、深い印象を受けた。結婚まで女性が処女のままでいなければならないのに、男性に道楽が許されているのは極めて不公平だと、彼女は考えた。彼女は、もし自分が結婚するなら、「清らかな」男性だけを夫にしようと決めた。ところが残念なことに、彼女が非常にまともだと思っていた、いちばん親しいボーイフレンドさえも、「スポイル」されていたのだった。

 

結婚はリーザの眼中になし

 当時、女性は17~19歳くらいで結婚するのが普通だった。20歳にもなって未婚だというのは、ちょっと奇妙なことだったのである。リーザは大家族の長女で、しかもかなり早く父親を亡くしていたため、母親はリーザができるだけ早く結婚することを望んでいた。そうすれば、母親としては、リーザの暮らしや金銭的バックアップにもう責任を負わなくていいと思えただろうから。

 ところがリーザは、この頃にはまだ好きな人がおらず、しかも自分は魅力がないと思い込んでいた(彼女の美しい写真はそれを否定するが…)。だから彼女は、結婚などしたくなかったし、読書が大好きで、勉強したいと思っていた。

 とくに、すべての男性が「スポイル」されていることに気がついたとき、彼女は結婚など真っ平ごめんだ!と決めてしまった。
 さらに、フランスに住むようになると彼女は、フランス女性から、ほとんどこう納得させられた。結婚前に男が好き放題に生活できるのなら、女だってそうすべきだと。

 あるときリーザは、女友だちに会ったのだが、彼女は最近結婚して、突然、「たった2回目で」もう妊娠してしまったという。リーザは驚いた。なぜ彼女は、(避妊せず)2回でそうなるような運命を選んだのか、と。その友だちの話で、リーザはこんな確信を得た。自分の結婚しないという決断は正しいと。友だちはこう言ったのである――「私たちは結婚すれば、自由に振舞えない。夫がいるのだから...」

 

リーザがしたかったのは勉強だけ

 リーザは、ヤロスラブリ(モスクワの北240キロ)にあるギムナジウムを卒業すると、勉強を続け、良い教育と仕事を得たいと考えていた。しかし、若い彼女には、自分の道を自ら決める権利がなかった。

 21歳になるまでは、母親の同意なしに女性の教育課程に入ることもできなかったし、その同意も得られなかった。母親の信じるところでは、リーザはできるだけ早く結婚すべきで、勉強は妨げにしかならないのであった。リーザの父が残したささやかな遺産も、当てにできず、21歳になるまでは手を付けられなかった。

 バシンスキーはその著書で、19世紀にロシア女性がどんな権利を持っていたのか(あるいは持たなかったのか)明らかにしている。

1) 女性は、父または夫の同意がなければ、自分が選んだ場所に住む権利がなかった。

2) 結婚は教会で行われ、離婚は事実上不可能だった。

3) 両親の遺産から、娘は動産の14分の1と不動産の8分の1を受け取ることができたにすぎなかった。残りは息子たちの間で均等に分割された。

 これはリーザの怒りをさらに掻き立てたし、生涯を通じて憤懣の原因であり続けた。なぜ自分が娘であるからというだけで、より少額の金を受け取らねばならないのか(しかも彼女は、父親ととても仲が良かったのに)

 しかし、例えば当時のフランスの法律では、男性が妻の相続財産の法的所有者になったが、これとは対照的に、少なくともロシアでは、女性は自分の両親のお金と財産に対する権利を持っていた。

4) 教育課程に登録したり就職したりするためには、父または夫の許可が必要だった。

 しかしリーザは、父親も夫もいなかったから、自分で教育課程に入学する資格があった。唯一の問題は、21歳未満だったので、母親の許可が必要だったのだが、母親は許してくれない。

 ここで我々は、リーザのフェミニズムのもう一つの側面を見出す。彼女は男性に助けを求めたのだ。彼女は、自分の目標を達成するために男を利用しようとする。

 ところが、ロシアの男性は女性よりもさらにフェミニストであった。女性が勉強したいと熱望しているのを見ると、できるかぎりその女性を助けたのである。

 リーザが履修を望んでいた、サンクトペテルブルクの教育課程の学長は、自らリーザの母親に手紙を2通書き、あなたの娘さんは、良質な教育課程で道徳的な雰囲気のなかで勉強することができると説得した。

 

我が道を行く女性

 バシンスキーの記述によると、リーザは、イギリスの女権拡張論者やフランスのフェミニストのいずれも、あまり鵜呑みにせず、ロシアの女性サークルやクラブにも、総じて注意を払わなかったという。しかしリーザは、女性の権利と男性からの独立のために、女性が団結して戦うことの重要性を理解していた。

 リーザは、論文「女性問題について」を執筆し、宗教権力に反対する立場を打ち出して、こう述べた。「キリスト教は、宗教的基盤に依拠して、女性の奴隷化を支持してきた」と。

 若い頃には非常に宗教的だった、こうした19世紀の女性を想像できるだろうか?リーザは、自分が読んだ本を通し、また日記のなかで絶えず咀嚼、反省していくなかで自分の個性を形作り、それによって、自分が圧迫されてきたあらゆるステレオタイプと教育を克服しようとする。

 19世紀後半になると、革命運動が活発化し、女性革命家の数も増えていった。彼女らは、自分の権利を持つ独立した人格となるよりも、何よりもまず男性の革命家を支える補助役に徹していた。リーザは、最初は彼女らの勇気に魅了される(ソ連建国者ウラジーミル・レーニンの将来の妻となる、女性革命家ナジェージダ・クループスカヤは、リーザと同じサンクトペテルブルクの課程で学んでいた)。

 だが、リーザが最終的に気づいたのは、女性革命家たちの指に結婚指輪が絶えず増えていくことだった。リーザは失望する。彼女らは、自由の理念のために戦っていたはずなのに、ただ反逆者たちと恋に落ち、結婚しただけだった。

 

学校は出たけれど仕事の門は女性には閉じていた

 こういったあらゆる障害にもかかわらず、リーザは幸いにして、当時のロシアが女性に提供できた最高の教育を受けられた。ところが女性であるがゆえに、リーザは仕事を得ることができなかった。その教育課程もライセンスを与えてくれない。そこで彼女は1900年、パリに移り、入学試験に合格してソルボンヌ大学法学部に入った。

 まだフェミニズムという概念が登場する前に、リーザは日記に次のように記している。

 「私は、女性が男と平等な権利を持つことを要求しているわけではない。男女両性が政府で働いたり、国を支配したりすべきだと言うのではない。そういうことをやる男性は十分たくさんいる。だが概して、女性にもっと広範な行動範囲、人権を与えるべきだ。結婚する機会がなく、自分のお金を稼ぐ必要のある女性に、知性と心を発達させる権利を与えるべきだ。そして、そういう女性のなかに、素晴らしい知性と才能が現れたら、彼女らを抑圧せず、自由な発展の可能性を与えるべきだ...。それでも結婚したい女性は十分多くいるだろうから」