キューバ危機で核戦争を防いだソ連の英雄

歴史
オレグ・エゴロフ
 1962年10月27日、世界はいよいよ核超大国ソ連とアメリカの全面的な衝突を目の当たりにしようとしていた。アメリカ海軍が核魚雷を搭載したソ連の潜水艦をキューバ沖から追い出そうとした時、ワシリー・アルヒーポフ艦長の冷静さにより、危機は回避された。

 1962年のキューバ危機は当初から、世界規模の惨事の危険性をはらんでいた。アメリカはキューバからソ連の核ミサイルを撤去するよう要求し、ソ連はアメリカがまずトルコから準中距離弾道ミサイルを撤去すべきだと主張した。

 ジョン・F・ケネディ大統領はアメリカ海軍にキューバを封鎖するよう命じ、ニキータ・フルシチョフ第1書記は核魚雷を搭載した641型潜水艦4隻をキューバの水域に送るという反応を示した。10月27日、未曾有の大災害が差し迫った。キューバのソ連軍基地近くの上空を、アメリカのロッキードU-2偵察機が飛行し、地対空ミサイルで撃墜され、操縦士が死亡。開戦は目の前に差し迫っていた。

未曾有の緊張

 状況はさらに激化した。キューバ沖で、アメリカの駆逐艦11隻と空母が641型潜水艦1隻を包囲。核魚雷が搭載されていることを知らずに、爆雷を投下して、641型潜水艦を水面に引き揚げようとした。

 641型潜水艦内では、ワレンチン・サヴィンスキー艦長がモスクワに連絡をして、反撃の判断を仰ごうとしていたが、連絡が通じなかった。そして、爆雷の爆発が迫ってきた。「鉄の樽の中に座っていて、誰かに大きなハンマーで叩かれているような感じだった」と、同乗していたワジム・オルロフ情報将校は当時のことを語っている

 641型潜水艦では電気も空気も切れ始め、水面に上がって補充する必要がでてきたが、アメリカに攻撃される可能性を考えていた。もう第三次世界大戦の用意ができているのかもしれないと。

アルヒーポフ艦長が阻止

 アメリカの要求にしたがって水面まで浮上するか、核魚雷を発射するかの決断を、3人の責任者が下さねばならなかった。オルロフ情報将校によれば、サヴィンスキー艦長にも、政治部長代理にも、発射の用意があったという。

 サヴィンスキー艦長は神経をとがらせ、すでに開戦したと考えて、こう叫んだ。「さあ、爆破するぞ!我が海軍に恥をかかせない!」と。だが小艦隊全体の責任者だったアルヒーポフ艦長は、核魚雷の発射を危険すぎる決断だと言い、他の2人を説得した。

 641型潜水艦は水面に浮上し、アメリカの艦船に挑発を止めるよう要求。残りの3隻とともに、キューバの水域を出て、ソ連に戻った。乗組員が全面衝突を未然に防止したことが、何よりだった。翌日の1962年10月28日、フルシチョフ第1書記とケネディ大統領は合意。キューバ危機は幕を閉じた。

1年前にも冷静に対応

 長年の経験で培われたアルヒーポフ艦長の権威は、サヴィンスキー艦長を動かした理由の一つ。潜水艦員の間で有名なエピソードは、キューバ危機の1年前に起こっていた。

 1961年、故障やアクシデントでソ連の将校の間で評判の悪かった658型原子力潜水艦(「ヒロシマ」というニックネームまであった)に、アルヒーポフ副艦長は乗った。1961年7月、658型潜水艦は北大西洋で訓練を行っていた際、原子炉の故障により、冷却水を喪失。放射能レベルが危険な域まで跳ねあがり、多くの乗組員と将校は動揺し、暴動に発展しそうになった。アルヒーポフ副艦長は冷静沈着で、秩序を守り、適切な避難を組織した。1年後、キューバ危機でも、同じように冷静な対応を見せた。

無名の英雄

 キューバ危機を解決したにもかかわらず、アルヒーポフ艦長は、少なくとも公式には、別段称賛されなかった。キューバ危機の話全般が機密扱いであった。アルヒーポフ艦長は1981年に海軍中将に昇格。退職後はモスクワ州で家族と共に静かに暮らしていた。

 2002年、キューバ危機40周年特別会議で、オルロフ情報将校は、世界が核戦争にどれだけ接近していたか、アルヒーポフ艦長が防止でどのような役割を果たしたかなど、詳細を明らかにした

 アメリカ国家安全保障文書館のトーマス・ブラントン館長は深い感銘を受け、こう述べた。「ワシリー・アルヒーポフという名前の男が世界を救ったということがわかった」。この特別会議の出席者は皆うなずいたが、アルヒーポフ氏の話を聞くことはできなかった。4年前の1998年に他界していた。