ロシアの船引き:なぜ人間が船を引っ張ったのか?

歴史
アレクサンドラ・グゼワ
 旅行中に、飛行機が遅れて、憤懣やるかたなかった――。もしそんな経験があったら、次に遅れたときには、19世紀に人々がどのように旅したかを思い出すと、多少気分がまぎれるかもしれない。

 あなたはたぶん、ロシアの画家、イリヤ・レーピンが描いた『ヴォルガの船引き』(1870年~1873年)をご覧になったことがあるだろう。

 絵に描かれた男たちは、なぜ、こんな仕事をやっているのだろうか?なぜ、この疲れ果てた男たちは、奴隷さながらに、船を上流に引っ張っていくのか? なぜ、気の毒な若者たちは、外輪船や帆船を使わないのか?ひとつ調べてみよう。


船引きとは何者か?

 ロシア語で「ブルラーク」と呼ばれる、彼らの主な仕事は、川の流れに逆らって、つまり上流に向かって、帆船を引っぱっていくことだった。ふつう、彼らは、全長30〜50メートルの平底貨物船を引いた。これは、秋と春の季節労働であった。

 たまたま順風が吹いたときは、船を速く動かすことができたが、通常は苦しい作業だった。にもかかわらず、人々がこの仕事に就いたのは、お金がどうしても必要だったからだ。この絵を見ると、奴隷的な搾取に見えるが、彼らは奴隷ではない。給料は支払われたし、仕事の効率を上げるための、同業者の組合「アルテリ」もあった。

 仕事を楽にやろうと、船引きたちは、歌いながら気分を盛り上げた。なかでも、民謡「ヴォルガの船引き歌」(「エイ・ウーフ・ニェム」で始まる)は、彼らのお気に入りで、後に革命的な労働者の間で人気を得た。

 

*オペラ歌手、フョードル・シャリアピンの歌う「ヴォルガの船引き歌」 

 

 船引きの仕事は、16世紀から20世紀にかけて大きな需要があり、1900年代初めに女性の船引きを撮影した写真さえ残っている。しかし、この職業は、蒸気船の出現で時代遅れになり、ソ連政府は1929年に、船引きを正式に禁止した。

 

船引きを一番必要とした川は?

 船引きに最も多くの仕事をもたらしたのは、ヴォルガ川だ。

 ヴォルガ河畔のルイビンスクは、非公式に「船引きの首都」と呼ばれていた。同市は、商業・物流の一大中心地であり、貨物船、ポーター、荷馬車の御者など多数の労働者を引き寄せた。

美術における船引き

 イリヤ・レーピンが初めて船引きを目にしたとき、その重労働のイメージが彼の心に刻まれた。人間の苦しみと周囲の自然の美しさのコントラスト…。

 彼は、船引きを最も正しく描く方法を見つけるために、数十ものスケッチをした。そして、あの有名な絵を完成させる前に、現在、モスクワのトレチャコフ美術館に所蔵されている『浅瀬を行く船引き』(1872)を制作した。『ヴォルガの船引き』のほうは、サンクトペテルブルクのロシア美術館にある。

 批評家はこの絵を賞賛し、作家ニコライ・ゴーゴリの小説の力になぞらえた。極めてリアルであり、庶民の生活の暗部を仮借なく描き出していると。大作家フョードル・ドストエフスキーも、その『作家の日記』のなかで、この絵を、芸術における真実の勝利と呼んで、高く評価した。

 しかし同時代の歴史家の中には、こう指摘する者もある。レーピンは、より劇的なイメージを創り出すために、船引きの作業を歪めて表現した、と。

 たしかに、実際のところ、川岸に沿って、上流に向けて、船を歩きながらけん引するのは、この仕事では極端なケースだった。 仕事の大半は、船を離れることなく行われた。

 まず、小さな船に乗り込んだ数人が、ロープに繋いだ錨を積んで、上流に漕ぎ出し、それをできるだけ遠くの川中に投げ込む。その後で、船引きたちは、このロープを、けん引すべき船のデッキ中央の大型回転バレルにつないで、船を所定の方向に動かした。順風が吹いたときは、もちろん帆を使った。

 レーピンは、船引きを不滅の芸術に表した唯一の画家ではない。ほかにも、この題材を描いた優れた絵がいくつかある。例えば、歴史画家ワシリー・ヴェレシチャーギンの「船引き」は、レーピンの傑作より6年早く、1866年に制作されている。レーピンの少し前には、アレクセイ・サヴラーソフも、「ユーリエヴェツ付近のヴォルガ」(1871)で、この苦しい労働を描いた。