四角いフレームの眼鏡をかけ、髭ぼうぼうの痩せぎすの男性がいる。学者ともホームレスともとれる風体で、通りをぶらついている。小さな食料品店を見ると、彼は中に入り、おしゃべりしている2人女性店員のところへ真っすぐに歩み寄る。
「ライ麦のジート(жито)がありますか?いくらですか」
「ジート?何です、それは?」。二人は驚いて聞き返す。
「パン(хлеб)のことですよ。古代ロシアではそう呼んでたんです。ゼムニャシカ(земняшка)はいくらかな?」
「ゼムニャシカって何です?」。二人の女性はいよいよ怪訝な面持ち。
「ジャガイモをそう呼んでたんですよ。ゼムリャ(土)から生えてくるからね」。男は説明する。
男はキム・スシチェフさんといい、36歳の清掃員で、かつて心理学を専攻した。その彼は、絶えずこうした「無理解」に遭遇しなければならない。
4年間にわたり、ほぼ毎日、近所の人や通行人に、「セレジェニ」(середень)はショッピングセンター、「カザリニク」(казальник)はテレビ、「ナヴァル」(навар)はスープ、「ジジャ」(жижа)はジュースなどと説明している。
キムさんによると、そう説明してあげた人は、ほとんど笑って聞いているが、まだ昔ながらのロシア語を話し始めるにはいたっていない。
「なぜか知らないが、私の意見に賛成してくれたのは、亡くなった祖母だけ」。キムさんは不満だ。
キムさんはもう4年間、「ロドノレチエ」(Родноречие)と「チストレチエ」(Чисторечие)の会員だ。これらの団体は、ロシア語における英語その他の外来語の使用と戦っている。ロシア語に、英語からの借用語がいくつあるか数えた人は誰もいないが、平均的なロシア人は毎日それに遭遇する。
ロシアの衣料品ブランド、カフェ、レストランは、名前を英語(あるいはその借用語)にする。 普通のオフィスでも、ますます次のような言葉が使われるようになっている。「フィックスする(間違いを直す)」(пофиксить→fixから派生)、「レポート」(репорт) 、「リサーチ」(ресерч)
インターネットでは、ほとんどすべての言葉が、「メッセンジャー」(мессенджер)、「フォロワー」(фолловер)、「ライク」(лайк)などを含めて、英語だ。
さらに、毎年新しい英語が、若者のスラングに登場し、すぐにふだんの会話やポップカルチャーの一部になる。例えば、「クラッシュ」(краш)、「ロフル(笑)」(рофл)、「フレックスする(自慢する、目立とうとする)」(флекс→flexibleから派生)。
上の団体は、こうした潮流のすべてと、どう戦おうというのだろうか?
ロシア語なきロシア語
「中学、高校のころ、私は、ダーリの『ロシア語辞典』をもっていた。そのいろんな項目を読んでいるうちに私は、外来語より、ロシアの同義語を見た方が、その意味がもっと良く分かることに気づいた。それで私は、見たり聞いたりした外来語のほとんどすべてを、ロシア語の同義語に置き換えることに熱中し始めた。そのおかげで、さまざまな科学用語で満たされた新しい情報をすばやく吸収することができるようになった。英語からの借用語も、私の趣味の範囲内にあったわけだ」
「チストレチエ」の三人の管理人の一人である、27歳の無職、レオニード・マルシェフさんは振り返る。
彼の意見によれば、“распродажа”(セール)、“отклонение”(逸脱)、“безотходник”(ゼロウェイスト)などのロシア語は、英語からの借用語で同じ意味をもつ “сейл”(「セール」のキリル文字による表記)、“девиация”(deviation)、“зеровейстер”(zero waste)などよりずっと簡単だし、分かりやすい。こんな借用語は、ロシア人には単なる音の羅列でしかない――。こうマルシェフさんは信じている。
2015年、ロシアのソーシャル・ネットワーク「フコンタクテ(VKontakte)」で、マルシェフさんは、コミュニティ「ロドノレチエ」(登録者数8500人)を見つけた。このコミュニティは、英語その他からの借用語の代わりにロシア語を使うことを提案していた。このグループをしばらく観察した後で、彼は、ここへの投稿を始め、当時の管理人の許可を得て、管理人の一人になった。
3年後の2018年、彼は別のコミュニティ「チストレチエ」(登録者数2300人)を立ち上げた。こちらは、英語からの借用語との戦いに専念している。
ほとんどの場合、このコミュニティは、英語からの借用語と、「本来のロシア語」の同義語とを併置するだけだ。しかし、管理人が、そのコメントのなかで、ロシア語の語根等から同義語を考え出すように、コミュニティ参加者に提案することもある。
例えば、
- Такси(タクシー) - пролетка
- Страница человека в соцсетях(ソーシャルネットワークのその人のページ) - вещальник
- Ноунейм(noname) - беспрозванец
- Интернет(インターネット) - междусетье
- Митинг(ミーティング) - сходка
- Спикер(議長、報告者) – гласник、とその他
また、コミュニティの管理人は次のことを強く求めている。
- ふだんの会話では、ロシア語の類義語を積極的に使うこと。
- YoutubeやGoogleなどの英語はすべてキリル文字で書くこと。
- メディアがテキストで英単語を用いることを禁じること。
- ロシア企業が「Москва Сити(モスクワ・シティ)」や「Robot Fedor」など、外国語の名前を使用することを禁じること。
(ロボット・フョードルは、ロシア人によくある名前だが、ここでは、英語の略語になっている。すなわち、FEDOR - Final Experimental Demonstration Object Research)
「英語からの借用語が溢れかえっているのを見れば、ロシア語が英語に取って代わられつつあるのが分かるだろう。なるほど、借用はどの言語にとっても自然な現象だが、自分の言葉がつくり出される以上に多くが借用されるようになると、その言語は独創性を失う。英語の過度な借用で、ロシア語はロシア語らしさをなくす。これはもう民族の衰退であり、国は自主独立の発展はしていない。発展させなければならないのはロシア語であり、ロシア語のなかの英語ではない」。マルシェフさんはこう考える。
英語に対する「遊び」
キムさんは当初、ロシア語における英語の問題には注意を払わず、他のメンバーの多くと同様に、たまたまこのコミュニティに出会った。
「最初は、これは私にとって、言語ゲームやメンタルゲームのようなものだったが、その後『ロドノレチエ』の人たちと知り合いになった。彼らの活動、そしてロシア語と借用語に対する彼らの見解に私は共鳴し、仲間になった」。キムさんは語る。
ミハイル・アルハロフさんは、バウマン記念モスクワ国立工科大学の学生で21歳。学校で英語を学んでいなかったこともあり、英語からの新しい借用語はすべて、彼にとって取っつきにくい、ある種の「敵対的な」言葉になっていた。
「その後、私は、マスコミとその関連分野に、英語からの借用語がどんどん出てきていることに気づき始めた。『フェイク』(фэйк)、 『パフォーマンス』(перформанс)、『hype(誇大広告)』 (хайп)、『ハンドメイド』(хэндмэйд)、『クリーニング』(клининг)などなど。これは、私の見方、感じ方を強めるばかりだった。だって、新しいロシア語はさっぱり見当たらなかったから。そんなものは単に存在しなかった」。アルハロフさんは説明する。
両コミュニティで我々が話を聞いたメンバーのほとんどは、ふだんの会話で英語を使わぬように努めている。そして、「間違い」に気づいたときは、辞書やコミュニティのリストを漁り、英語に代わる同義語を探すか、独自の言葉を考案するという。
このメンバーたちによると、彼らが英語を別の言葉に置き換えても、周りの人々は、たいていの場合、それに気づかない。が、置き換えた言葉が聞きなれないものである場合には、その意味を尋ねることもあるそうだ。
しかし、「チストレチエ」の参加者で37歳のエンジニア、ゲンナジー・ウリャドフさんは、英語からの借用語を完全に拒むつもりはない。ただ、自分の子供があまり頻繁に使い始めたときにのみ、問題にぶつかっているという。
「正直言うが、私は外国語の借用そのものに反対しているわけではない。私は狂信者ではない。 ドイツ語を勉強したので、自分が理解できない言葉を覚えるのは難しい。"Шэрить"(シェアする)、"кейс"(ケース)などは理解しにくい。でも、"хайп"(誇大広告)は気に入っている。もっとも、これに相当するロシア語の同義語があれば嬉しいけど」。ウリャドフさんは言う。
чикен макнаггетс (チキンマックナゲット)――舌を噛みそうだ
政府当局者は定期的に、英語からの借用語の使用に反対している。例えば、2019年11月、ヴャチェスラフ・ヴォロディン下院議長は、サラトフ訪問中に、英語の広告看板を批判した。
「やれやれ、これでは亡国を招きかねない。金持ちになったはいいが、イギリス人になってパブで朝を迎えたいのかな。チキンマックナゲットなんて書いてある。舌を噛みそうじゃないか!」。下院議長は、看板の一つを槍玉に挙げた。
「ハンバーガーじゃなくて、カツレツをはさんだパンと言えばいいじゃないか」と、サラトフのミハイル・イサエフ市長もたたみかけた。
同年10月、前首相は、政府閣僚を英語の過度な使用で批判し、「不要な言葉でロシア語を汚くしてはいけない」と述べた。
2019年3月、上院の情報政策委員会のアレクセイ・プシコフ委員長は、ツイッターに英語のリストを投稿した。
それらの借用語は、彼の意見によれば、ロシア語を「醜い突然変異体」に変えつつあるという。そのなかには、“коучинг”(コーチング、つまりトレーニングの指導)、“тимбилдинг”(Team building)、“фарминжиниринг”(pharm-engineering→ロシア企業の名前)などがあった。
「この言語学的恐怖について、ホラー映画を撮る時が来た」とこの上院議員は言った。もっとも、彼自身が「ホラー」という英語を使ったことは、彼を当惑させなかったようだ。
しかし、ミキトコ・スィン・アレクセーエフというペンネームのブロガー兼言語学者は、別の意見だ。英語に代わる「ロシア語の代替品」を探したり、考案したりする意味はない。なぜなら、それらはやがて、旧来のコンテキストや連想と混合していくからだという。
「何世紀にもわたる、この方面での現実の推移を見れば、そんな代替品を考えだしても、うまくいかないことが分かる。代替語の千語のうち、残るのはせいぜい一つか二つだろう。それも、例えば、非常な有名人が特定の文脈で新語を使い始めたといった、独特の場合だけだ」。アレクセーエフさんは説明する。
彼の意見では、新しい、またはそれ以前はアクチュアルでなかった現象や事物を示す借用語は、ロシア語の役に立つ。例えば、「シンセポップ」(синтипоп)、「メッセンジャー」(мессенджер)、「アンドロイド」(андроид)、「絵文字」(эмодзи)、「バン(禁止)」(бан)等々。
外来語一般と英語からの借用は、人間の精神を本当に変え、ポジティブな方向にも変え得る。なぜなら、それらは意識の拡大、グローバル化を促すからだ――。
モスクワ言語大学のドミトリー・ペトロフ講師はこう確信している。もし、外来語、借用語を使用する大本の基礎としてロシア語がしっかり保たれているならば、それらの使用はロシア語を十分豊かにすることができる、と講師は考える。