ソ連ではどんなアメリカ食品が根づいたか

農産物加工工場で生産された缶詰の食料品を紹介している女性。

農産物加工工場で生産された缶詰の食料品を紹介している女性。

ユーリイ・ヴェンデリン、ヴィクトル・ルドコ撮影/TASS
 ハンバーガーを炭酸飲料と食べることが考え出されたのはソ連だったとご存じ?アメリカでこの習慣がお目見えしたのは、マクドナルド1号店が開店してから数年後のこと!

 1936年にソ連の食糧産業人民委員アナスタス・ミコヤンは、食品の大量生産システムを導入するためアメリカへ向かった。ミコヤンが自身の回想に書いているように、帝政崩壊後の若い国には、体系化された食料生産システムはなく、手工業だけだった。米国ではすでに食品の工業生産システムが整っており、全員が一定の品質規格に基づいて仕事をしていた。

 海の向こうで人民委員は二カ月間を過ごし、おもに、工場用の設備を持ち帰った:冷蔵設備、機械によるパン焼き技術、乳牛の搾乳装置やその他の興味深い物があった。設備以外にも、ミコヤンは新しい食品と新しい料理の習慣も持ち帰った。そのうちの多くは、三年後に彼の指導で出版されたロシアの主要な料理本『おいしくて健康にいい食べ物の本』にも掲載されている。

1.ハンバーガー

 人民委員はハンバーグ入りのパンを非常に気に入った。ハンバーガーを甘い炭酸ものと食すというのは、なんとソ連で考案されたのだそうだ。ミコヤンは、ハンバーグ用の機械を25台購入し、モスクワやレニングラード、キエフ、ハリコフの通りには、ハンバーグ入りの「都会風」パンを1個50コペイカで売るキオスクがお目見えした。パンの製造技術もアメリカから持ち込まれた。

 コカ・コーラの原液を買いつける資金は足りなかった。しかし、ソ連で「ハンブルゲル」と名付けられたハンバーガーと一緒に、フルーツテイストの飲料が販売された。一方アメリカでこの習慣が始まったのは、マクドナルド1号店が開店した1940年になってから!しかし、戦時中はストリートフードどころではなくなったため、「ハンブルゲル」の製造も縮小され、「アメリカもの」はすべて重宝されなくなった。ハンバーガーが再び登場するのは、ソ連後期になってからだ。とはいえ、ハンバーグの製造は絶えることはなかった:半加工の冷凍品は国じゅうで販売されていた。

2.マトジュース

レンコラン缶詰工場の商品。

 アメリカでミコヤンは、朝食にオレンジジュースを飲む習慣を目にしたが、ソ連ではオレンジは育たなかったため、トマトジュースを製造することにした。初めのうちトマトジュースはソ連の人たちにさほど気に入られなかったが、広範な宣伝キャンペーンが功を奏した。トマトジュースは、幼稚園にも学校にも工場の食堂にも食料品店にもレストランにもあった。1960年代頃には、果汁ジュースの種類はかなり増え、ナシ、リンゴ、プラムが登場した。ジュースは紙パックではなく、ガラス瓶入りで売られていた。もちろん、果汁100%だった。

3.ケチャップ

 このソースがソ連に登場したのは1930年代末のこと。ケチャップは、肉の調味料としてだけでなく、スープを作るときにも使うことが推奨された。ちなみに、『おいしくて健康にいい食べ物の本』の戦後版では、トマトパスタやトマトソースを作るのにケチャップが代用されている。店でもそうだったのは言うまでもない。ただし、1980年代になると、ソ連ではケチャップが調味料に戻った:ケチャップはブルガリアやハンガリー、ユーゴスラヴィアから輸入されていた。 

4.缶詰と半加工品

ソ連。工場の先人、S.オルジェワさんが工場の商品を消費者への郵送のために準備している。

 ミコヤンが持ち帰ったおもな設備は、業務用冷蔵庫、蒸し肉やコンデンスミルクを含む缶詰類を製造するためのコンベアだった。肉や魚の缶詰は、昼食や夕食の基本的な一品として、果物や野菜の缶詰は冬場の季節物の代用品として推奨された。例えば、『おいしくて健康にいい食べ物の本』では、冷凍カツレツの付け合わせに缶詰のグリンピースを添え、それにカニ缶のサラダをマヨネーズで和えたものを一緒に出すよう提案されている。何時間も煮込まなければならないブイヨンの代わりに、固形スープを使ったり、乾燥スープをお湯で溶いたりすることもできる。

5.ドクトル・ソーセージ

 ソーセージの大量生産技術をミコヤンはシカゴの食肉コンビナートで目にした。同じく1936年に、モスクワにソ連初のソーセージ工場が開設され、低脂肪・高たんぱくのソーセージの生産が始まった。原材料となったのは自然の材料のみだった(とはいえ、戦前の多くの食品と同じだが)、長期的な飢餓で病んだ人たちにも処方されていた。それで「ドクトル(医者の)」ソーセージと呼ばれたのだ。 

6.コーンフレーク

 『おいしくて健康にいい食べ物の本』の初版では「コーンフレーク」と呼ばれ、サワークリームや牛乳、キセーリと一緒に食べるよう推奨されている。このアメリカ製の食品はソ連の人たちの好みに合っていた。そのため、朝食用のドライフードの生産は年々増えていった。ニキータ・フルシチョフは、1950年代にアメリカに行ってから、トウモロコシをソ連の主要な農作物にしようとした。店には、コーンのスナック菓子やパン、ソーセージが登場した。しかし、1960年代半ばに、収穫量の大部分が枯れてしまい、生産は縮小し始めた。

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