レオ・シロタ
グラズノフとブゾーニの弟子
レオ・シロタは1885年5月4日、ウクライナの小さなカメネツ・ポドリスキー町(ウクライナは当時ロシア帝国に属していた)のユダヤ人の家庭で生まれた。5歳でピアノをひき始め、9歳でコンサートを開き、11歳から音楽を教えるなど、小さい頃から優れた音楽の才能を発揮した。14歳の時にキエフ・オペラの主要なピアノ伴奏者になり、その後サンクトペテルブルク高等音楽学院を卒業。在学中、教授を務めていた作曲家アレクサンドル・グラズノフにヨーロッパへの留学をすすめられ、オーストリアに旅立つ。当地ではコンサートを開きながら、イタリア人の作曲家フェルッチョ・ブゾーニのもとで学び、同時に大学で哲学 と法律を修めた。
山田耕筰から公演の依頼
1926年にモスクワで招待を受けて満州に行き、そこで日本の作曲家である山田耕筰から日本公演を依頼された。娘のベアテ・シロタは当時5歳。このように回想している。「父は公演で1年も家を空けていたから、戻って来た時に母はとても怒っていたの。『次にどこかへ行く時は、家族も一緒に連れて行くべきだわ』とね」。
シロタの家族と山田耕筰。
シロタが教授として日本に招かれたため、一家は1929年、東京での生活を始めた。当初は長期滞在する予定ではなかったが、日本の音楽界におけるシロタの人気が高かったこともあり、日本の暮らしは1946年まで続いた。日本での生活はとても平穏で、音楽活動の競争もほとんどなかった。シロタと同レベルの音楽家が日本に現れたのは1938年。同じくグラズノフ教授のもとで学んだレオニード・クロイツァーだ(シロタもクロイツァーも日本での在留期間は17年)。日本には反ユダヤ主義がなかった。シロタの家があったドイツとオーストリアでは1930年代、ナチスが政権を握り、シロタのパスポートをはく奪したため、シロタは戻ることができなかった。
レオ・シロタ。弟子の藤田晴子と共に。 1940年代。 |
園田高弘、井口基成らを輩出
日本ではたくさんのコンサートを行い、教鞭もとった。1931年にもう一人のロシア人音楽家レオニド・コハンスキーに代わって、東京音楽学校の教授に就任。シロタは日本が偉大なる音楽国家になると信じ、また生徒に自信を与えることが得意だった。生徒には、日本を代表するピアニストになる園田高弘、桐朋学園の創設者の一人である井口基成、未来のモスクワ音楽院の教授であるアナトリー・ヴェデルニコフらがいる。シロタの生徒の誰もが、細かな気配りに驚いた。シロタは厳しい指摘をせず、繊細に修正し、ミスをした生徒を励ましていた。
ロシアのピアニストで音楽学者であるアレクセイ・カナヴィはこう考える。「残っているシロタのメモを見ると、ロシアと世界のピアニズムの流れをしっかり受け継いでおり、輝かしい技術と知的な演奏スタイルの持ち主であることがわかる。これらの特質によって優れた教育者としても成功し、日本の学校の発展などに極めて大きな貢献をすることができた。その後の日本の教育者やピアニストは、ピアノ演奏で、広義のロシア派を基礎としたが、そのことが実を結んで、日本の音楽家は、世界の楽壇で確固たる地位を確立した。いまだにピアノの教授としてロシア人が招待されているのも、これと関係がある」
死去する2年前に再来日
レオ・シロタは第二次世界大戦中、さまざまな苦労をした。戦争が始まる前にアメリカからの招待を拒んで東京の生徒のために日本に残ったが、開戦後に外国人強制疎開地だった軽井沢に送られて餓死寸前となり、地元の農民にこっそり食べ物をわけてもらうなどして生き延びた。終戦後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)の民間人要員だった娘のベアテが父を見つけ、すぐにアメリカに父を送った。
シロタが日本に戻ったのは1963年。日本の友人や生徒に再会して別れを告げた。生徒の中には優れた音楽家に成長した人も多かった。この2年後、アメリカで生涯を閉じた。日本で2007年に映画「シロタ家の20世紀」が制作され、2004年には山本尚志による「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シ ロタ」(毎日新聞社)が出版されるなど、シロタは長く日本の人々の記憶に残り続けている。
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