レフ・メチニコフと日本の数奇な絆

レフ・メチニコフは、ノーベル医学賞受賞者イリヤ・メチニコフの兄で、1838年にサンクトペテルブルクで生まれた。3つの大学の4つの学部を転々としたが、天職を見出すことはできず、ポーランド、イタリア、フランスで、民族独立および無政府主義の運動に身を投じた。こうした流浪の歳月の挙句やっと見つけた一時の安住の地が日本だった。
薩摩藩の侍たち
薩摩藩の侍たち  =フェリックス・ベート/Wikipedia.org

 レフ・メチニコフは、ついに大学は卒業できなかったが、独学で学者になり、また才能あるジャーナリストでもあった。様々な言語で発表した論文の数は400以上に上る。彼は、欧州では過激派として知られていたので、なるべくペンネームで書いた。数カ国の警察が彼を捕らえようと手ぐすね引いていたため、彼らの手の届かない逃亡先をあれこれ考え、1871年に、日本に白羽の矢を立てた。明治維新を社会主義革命と混同していたメチニコフは、言ってみれば「東の黎明」の光で暖まろうとしたわけだ。

レフ・メチニコフ氏レフ・メチニコフ氏

日本語のセンセイは若き大山巌 

 しかし彼は、ほとんどのロシア人亡命者とは違って、綿密に日本行きの準備をした。万巻の書を読破し、日本語教授の招請を受けた上で、満を持して出かけている。

 当時すでに欧州の13ヶ国語をマスターしていた彼は、1872年にジュネーヴでうまく日本人を見つけ、日本語を教えてもらうことになった。そのセンセイは、当地に留学していた若き大山巌。後に陸軍大臣、元帥となり、日露戦争では、満州軍総司令官として日本の勝利に大きく貢献する明治の元勲だ。

  大山は当時、欧州の軍隊に学びつつ、日本の大学で教えられるような人材を物色していた(もっとも日本にはまだ大学はなかったが)。間もなく大山は、ジュネーヴを訪れた岩倉具視、木戸孝允、大久保利通にメチニコフを紹介する。

 今となっては信じ難いが、このロシア人ジャーナリストは、明治の元勲たちから直接招待されて、1874年に東京に赴任したのだった。

 

 

東京外国語学校に赴任 

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母語を忘れない

 メチニコフは、東京外国語学校でロシア語を教え始めたが、彼がロシア語の教官第1号というわけではなかった。彼が仰天したことには、たまたま日本に流れてきた酔漢の学生シードル(苗字はなかった)と、ポーランド人がすでに教官になっていた。このポーランド人は、ロシア語は知らなかったが、ポーランド語をロシア語と偽って教えていたという。

 メチニコフは、ロシア語だけでなく、かつてロシアで学んだ数学と歴史を教えた。日本での生活や学生たちについて、詳細な滞在記を残している。

 

教え子に二葉亭四迷 

 教え子のなかには、後に近代小説の嚆矢『浮雲』と近代文章語を生み出すことになる偉材、二葉亭四迷もいた。メチニコフは、日本語を習得したおかげで、大改革が断行されている日本の各地を訪れ、見聞を広めることができた。

 ちなみに彼は、大山巌の日本語の授業を回想して、こう書いている。「ジュネーヴで日本の将軍から教わった文章語は、横浜で日常耳にする口語とは、似ても似つかないことが分かった」。

 とはいえ、メチニコフは外国人教師として大きな権威を持ち、当時の日本の知識人たちと付き合いがあったので、近代以前の古風な文章語を実地に用いる機会はたくさんあった。彼は、知識人たちにピョートル大帝の改革について語り、明治維新の意義をそれに匹敵するものとみなした。

 日本の将来については、アジアの大国に成長することを予見しており、明治の大改革の意義を最初に認識したヨーロッパ人の一人となった。

 「日本が、復活するアジアのリーダーとなるか否か?それは時が示してくれるだろう。だが、もはや文明諸国は日本を無視することはできず、その現在および将来の意義を軽んずることはできないし、そうすべきでもない」。

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明治期に西洋学を伝授

 後にメチニコフは、『回想の明治維新 一ロシア人革命家の手記』と『亡命ロシア人の見た明治維新』(いずれも渡辺雅司による邦訳がある)、そして大著『大日本国』などを著し、ロシアにおける日本研究の基を築いた。

 彼は、日本を愛していただけでなく、崇拝していた。今日では、彼の日本観は時にいささか理想化されて見えるほどだ。

 

わずか2年足らずで成し遂げたこと 

 メチニコフが日本で勤務したのは2年足らず。健康が優れなかったため、滞在を早期に切り上げざるを得なかったが、その間に多くのことを成し遂げ、ロシアにおける日本学の、日本におけるロシア学の創始者の一人となった。

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