ラファエル・フォン・ケーベル =Press photo撮影
ラファエル・フォン・ケーベルは1848年、ロシア中部のニジニ・ノブゴロドに生まれた。幼少時より音楽に親しみ、モスクワ音楽院でピョートル・チャイコフスキーやニコライ・ルビンシテインに師事した。後にドイツで哲学の教育を受ける。
師のエドゥアルト・フォン・ハルトマンは日本の人文科学近代化を助ける専門家として教え子をベルリン駐在日本大使に推薦した。1893年、ケーベルは帝国大学教員になった。
ケーベルは古代ギリシャ語とラテン語を教えつつ西洋哲学の体系的な講義を行った(通常の授業は英語で行われた)。
東京外国語学校でロシア語も担当し、上野の東京音楽学校で音楽史やピアノも教えた。この哲学者の音楽家は自らしばしばコンサートで演奏した。「神々しきピアニスト」と明治期のジャーナリスト、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は呼んだ。ケーベルは日本でのオペラ初演にも携わった。
もちろん、ケーベルの主な仕事は哲学の講義であった。
夏目漱石や哲学者の西田幾多郎のほか、教え子には傑出した人文科学者が20人ほどいた。例えば、儒教学の権威・井上哲次郎、倫理学者の和辻哲郎、翻訳家の上田敏、評論家の高山樗牛らだ。
ギリシャ哲学研究者、出隆はケーベルに1年学んだだけだが「先生は、私の心の中でプラトンやゲーテといった大家と肩を並べた」と回想している。
啓蒙(けいもう)思想家の阿部次郎は「先生は、自由なる個人の教育を主たる課題とみなしていた」と感銘した。
ケーベルは日本について書き、「小品集」としてまとめた。分析的思考を発達させる必要性に関する評論は今も説得力を持つ。
その観察や願望には西洋的な高慢さがなく、日本への真の愛情や理解にあふれていた。
有島武郎は「おそらく、明治期の日本でケーベル先生ほど日本文化を深く感じていた外国人はいなかった」とつづった。
この類いまれな教師は17年間、同じ外套(がいとう)をまとい東京の外に出ることなく、1914年に退官すると帰国することにした。
ところが、横浜で世界大戦勃発の報に接し、ロシア領事のもとにとどまり、晩年の9年間をそこで過ごした。母国では社会主義革命が起きた。
その間、論文やエッセーを執筆し、「カタツムリのようにゆっくりと海岸通りを散歩していた」。そして、雑司ケ谷霊園に最後の安らぎの地を得た。
「哲学の道」は、明治期の日本における最高の哲学教師をそこへ導いたのである。
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