暗い過去併せ持つペテルブルク

サンクトペテルブルクを代表する壮観なエルミタージュ宮殿。美術館のイメージの陰で多くのドラマが演じられた =Lori/LegionMedia撮影

サンクトペテルブルクを代表する壮観なエルミタージュ宮殿。美術館のイメージの陰で多くのドラマが演じられた =Lori/LegionMedia撮影

サンクトペテルブルクは、壮麗な宮殿で世界に名をはせ、優美なファサードは河岸通りや大通りを彩り、夏は庭園の緑に埋もれ、冬は人気のない広場にそびえる。特に有名なのは、マリーンスキイ、ボロンツォフスキー、冬宮、ミハイロフスキーなどの城である。しかし、どれも殺害や宮廷クーデダーといった過去の歴史を秘めており、陰鬱な町とみなされている。

 この北の都がつくられた当初から、そこには皇室や貴族が住んでおり、まさに彼らのために、皇帝や大公の邸宅、貴人や名門の宮殿が建てられた。 

 

ユスフ家の宮殿

 裕福な一族は、市内に複数の豪邸を有していた。例えば、ロシアのみならず世界でも極めて富裕な一族であるユスポフ公爵家は、宮殿のほか、屋敷や邸宅、劇場を所有していた。

 リチェイヌイのユスポフの邸宅(1852〜1858、 リチェイヌイ大通り 42号棟)の主で宮廷女官のジナイーダ・ユスポワは、皇帝ニコライ1世やナポレオン3世の寵愛(ちょうあい)にあずかったが、邸宅に長くは暮らさず、ロシア皇帝とけんかをするとパリへと去った。

 空き家となった邸宅はしばしば賃貸され、1907年にはそこにロシア初のキャバレーの一つが開かれもした。もちろん、リチェイヌイの宮殿をめぐっては、館の主が営んでいた暮らしを映し出す伝説がある。例えば、麗しき公爵夫人の寝室の奥の秘密の部屋からは、彼女が逃亡させようとした若き革命家の骸骨が発見されたという。

 

ミハイロフスキー城

 こちらも有名なミハイロフスキー城(1797〜1801、サドーバヤ通り2号棟)をめぐっては、もっと多くの伝説がある。

 ミハイロフスキーもしくはインジェニェルヌイ城は「皇帝の宮殿の時代」と呼ばれる18世紀のペテルブルク建築の歴史を閉じた。

 それらの名称は、ロマノフ家の庇護(ひご)天使である大天使ミカエルならびに1823年からそこに置かれた工兵学校に由来する。この城はパーベル1世のスケッチに基づいて建造され、皇帝は建物の周りに堀と厚い壁を巡らして難攻不落の城を築いた。しかし、パーベル1世がミハイロフスキー城で暮らしたのはわずか40日にすぎず、1801年3月12日に自分の寝室で殺害された。

 皇帝の死後、城は打ち捨てられ、後継の皇帝たちはそこへ移り住もうとしなかった。例えば、ニコライ1世はインジェニェルヌイ城の大理石の床を新エルミタージュのための建材として用いるよう命じたほか、オランダ王妃で皇帝アレクサンドル1世の妹であるアンナ・パーブロブナへの贈り物は、城の銀の柵で作られた。

 

絶えない幽霊伝説

  やがてそこは工兵学校となり、大祖国戦争時には病院となった。現在、この城はロシア美術館の所有となっているが、地元のガイドたちは、人気のない広間や鏡に今もパーベル1世の亡霊が姿を見せると話している。

 亡霊が現れるのはミハイロフスキー城ばかりでなく、エルミタージュの「心臓」にあたる冬宮(1757〜1762、宮殿広場)にも皇族のお化けがすんでいるという。

 美術館の一部の館員は、薄暗い倉庫やめったに人の通らない廊下で、ニコライ1世、アレクサンドル2世、エカテリーナ女帝、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世の亡霊を一度ならず見かけたという。死を目前にしたエカテリーナ2世が玉座を離れて広間から退く自身の姿を目にしたという逸話もよく知られている。