ゴリキー・公園、モスクワ、1980年=
アレクセイ・ポドゥブヌィ撮影/タス通信私は当時、児童向け出版社で働いていたので、五輪マスコットのコンペのことはまったく知りませんでした。すべては偶然起こったのです。私の友人が、ソ連芸術家同盟の幹部の一人と会い、コンペのことや、ソ連五輪委員会に4万件のクマの絵の応募があったものの、これといったものを審査員が見つけられていないことを聞いたのです。そして、児童画家にも応募させてはどうかと提案しました。期間は1ヶ月。私たちは1週間でクマの鉛筆のスケッチ画を100枚ほど描き、五輪委員会に提出しました。
大勢の画家が描くクマと似ても似つかないクマを描かなくてはいけなかったのですから、困難な課題でした。国に盗用疑惑がかかるようなことは、あってはなりません。ミーシャは難関を突破できました。
ヴィクトル・チジコフ氏=wヤチェスラブ・ウンダシン撮影/タス通信
ソ連のクマは、政治的な風刺画によく使われていました。下品で横暴なクマでした。私が描きたかったのは、優しい気持ちになってもらえるような、楽観的な絵です。ミーシャを「五輪化」するのにずいぶん苦労しました。当初、くさび模様のカラフルなキャップを目深にかぶせようと考えていました。それぞれのくさびを、五輪出場国の国旗の色に合わせて着色するつもりでした。ですが、キャップをかぶせてしまうと、耳が見えなくなってしまいます。メダルを首にかけようかとも思いましたが、どの五輪マスコットも首にメダルをかけていましたから。モントリオール五輪のビーバーもそうでした。
私の家の隣人だった作曲家のヴァレリー・ズプコフをモデルにミーシャを描いたと言われたりしましたが、そうではありません。ズプコフが良い人だったことは認めますが。私は五輪ベルトを巻いたミーシャを、夢で見たのです。イメージづくりに取り組んでいると、こうやって夢で見ることが結構ありました。こういう時は、すぐに起きて、描いておくことが大切なんです。後になると忘れてしまいますから。1977年8月、モスクワで展示会が行われ、64案のミーシャが紹介されました。キラニン卿マイケル・モリスIOC(国際オリンピック委員会)会長も来場しました。会長は絵を見て歩き、突然、私の絵の前で立ち止まって、こう言ったのです。「ここにいるじゃないか!」と。
ソ連五輪委員会から連絡が来たのは1ヶ月後でした。ソ連共産党の承認を待っていたのです。「おめでとうございます。あなたのクマが承認されました」と言われました。こうしてミーシャが生まれたのです。あの時は、ずいぶん神経をすり減らしました。
モスクワ五輪の閉会式=ニコライ・ナウメンコフ撮影/タス通信
法的には何も手続きされていません。「愉快なクマさん」という名前の作品を完成した、という内容の文書に署名してはどうかと言われました。
ソ連五輪委員会の事務所で1300ルーブルをもらい、口座にも振り込みがありました。私はこのマスコットで約2000ルーブルを受け取りました(1980年のソ連の平均給与は120ルーブル)。ミーシャは五輪の宣伝の90%で使用されましたが。重要なのはそこではありません。モスクワ五輪の後、ソ連に対する世界の対応が明らかに良くなりました。ミーシャもかなり貢献できました。珍しい任務でしたが、しっかりと遂行できました。めったにない成功です。私は自分の子どものようにミーシャを愛しています。そして、モスクワ五輪の観客席にミーシャを見事に描いたディレクターのトゥマノフにとても感謝しています。ミーシャの目から涙がこぼれた瞬間を覚えていますか。スタジアムから飛んでいったゴムのミーシャは、オリジナルが歪められていたと言わざるを得ません。私だったら、その各部分をまったく違う比率にしていたでしょう。
ミーシャのイメージはその後、世界中で複製されました。他の物に使用されているのを見ても、驚きませんでした。例えば、香水の瓶。またはマッチ箱とか。チェコ共和国のプラハでは、ミーシャは共産主義博物館の宣伝をしています。そのポスターでは自動小銃カラシニコフを持っています。私のミーシャの目の中にあるのは、平和への願いですけれど。
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