作家レフ・トルストイ=ボリス・プリホディコ撮影/ロシア通信
ロシアでテニスが始まったと公式に認められている「誕生年」の数年前にあたる1878年、偉大な作家レフ・トルストイはすでにこのスポーツを“支援”していた。作家がテニスに遭遇したのは1860年代のことだった可能性がある。ちなみにサンクトペテルブルクに最初のテニスコートができたのは1866年のこと。トルストイは雑誌の『ロシア報知』で1875〜1878年にかけて連載していた『アンナ・カレーニナ』の中で、このスポーツを取り上げた。この小説の第6章で、アンナと愛人のヴロンスキーはダブルスに興じる。ロシアでテニスが公式に発足したのは1878年8月28日のことで、テニス愛好家のグループがサンクトペテルブルクで展示トーナメントを開き、ローンテニスを帝政ロシアの全国で発展させるというマニフェストを発表した。
アルツール・マクファーソン=アーカイブ写真
アルツール・ダヴィードヴィチ・マクファーソン(1870〜1919)はスコットランド系の苗字と先祖を持っていたにもかかわらず、彼はサンクトペテルブルクの出身で、一生をロシアで過ごした。彼は現在のロシアテニス連盟の前身である全ロシア・ローンテニスクラブ連合の創立者として初代理事長を務めたほか、同国の初代オリンピック委員会も立ち上げた。1903年に彼は初のサンクトペテルブルク・テニス選手権を組織し、その4年後には第1回全国選手権を組織した。1913年までにはロシア選手権は国際ツアーに含まれるようになり、このスポーツは発展していた。
1917年の革命の大混乱はあらゆるスポーツに影響を及ぼし、ブルジョワ階級と関連付けられていたテニスも例外ではなかった。マクファーソンは1918年に2回逮捕され、その翌年、モスクワの収監所でチフスにより死亡した。1920年になると、テニスは再び政府からの支持を得られるようになった。テニスは、全国で新世代の健康で活発なソ連市民を育成することを目的とした1928年開催のスパルタキアードに含まれた競技のひとつだった。
1930年代では、グランドスラムを7回獲得したアンリ・コシェがテニス界で最も活躍していたスターの一人だった。そのため、この駆け出しのソ連テニス界が1936年と1937年に2回ツアーに彼を招待することに成功したのは思いがけない偉業であった。コシェはモスクワ、レニングラード、キエフやその他の都市で公開展示イベントでプレーし、翌年にテニススクールを立ち上げる目的で再訪することに意欲的だった。しかしこの事業は長続きしなかった。粛清が度を増す中、コシェは「スパイ」容疑をかけられて国外追放され、関係者の多くは処刑された。
1950年代に、ソ連は国際的なスポーツの舞台に復活をとげ、同国のテニス選手たちは主要イベントで競技することが許された。とはいうものの、それはあくまで理論上の話である。実際には、選手に課せられた制約は甚大であった。亡命されることを極度に恐れていた政府当局は、選手が競技のために海外で過ごせる期間をわずか40日間に制限した。勝ち取った賞金は国によって吸い上げられた。チャンピオンの卵と言われ、ソ連制度の重圧によりキャリアを台無しにされたNatalia Chymrevaは、1977年のトーナメントで5,000ドルの賞金を獲得したことを覚えているが、彼女が実際に受け取ったのはわずか180ドルだった。
1955年、ソ連のテニス選手たちは特に洗練されたトレーニングプログラムを実施していなかった。その代わりに、テニスを管轄する当局は、体調を整えるための6ポイントプランを推奨した。その内容は100メートル走(女性はの場合は60メートル)、走り高飛び、テニスボール投げ、懸垂(女性はロープクライミング)、そして1500メートル走(女性は800メートル)だ。『ソ連テニス』誌は自信を持って次のように予想した。「これらの競技は間違いなく我が国の選手の運動能力を高め、それに従ってこの大会の格も引き上げられるだろう」
アンドレイ・オルホフスキー=セルゲイ・グネエフ撮影/ロシア通信
ロシアのテニスは1990年代にランキングで大幅な上昇をみせたが、これにはクレムリンからの助力もあった。ソ連崩壊後の初代ロシア大統領のボリス・エリツィンはテニスの愛好家だったので、この国のテニスコートはたちまち影響力を求める人たちのロビー活動の場と化した。同大統領のVIPトーナメントには、この国の有力者やお偉方たちがこぞって集い、オレグ・スィスエフ副首相やモスクワ市長のユーリ・ルシコフなどが同大統領の打ち合いのパートナーを務めた。以前、赤の広場の公開試合に出場したことがあるにもかかわらず、ルシコフ市長は苦戦したと伝えられている。彼は、自分の姿がよく映るように対戦相手に演出してもらうことに慣れていたため、世界ランキング元49位のアンドレイ・オルホフスキーが時速200キロのサーブを打ってくると、文字通りそれに吹き飛ばされてしまったのだった。
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