アレクセイ・フィリーポフ撮影/ロシア通信
白羽の矢が立ったのはジンエトゥラ・ビリャレトジノフ。長野とソルトレークシティーの冬季五輪にはアシスタントコーチとして出場し、2004~05年、ロシア代表チーム監督を務めた。
ビリャレトジノフは自分の決断ではないとして、こう述べた。
「今回の監督就任は(ロシア連邦)プーチン大統領とタタールスタン共和国のミンニハノフ大統領の間で決定された。辞退できるものではなかった」
ビリャレトジノフは40年余のアイスホッケー人生を歩んできた。モスクワのチーム・ディナモの学校へ通い、1973年にこのチームで1軍デビュー。以後15年間、ソ連最高のディフェンス選手の一人として活躍した。
80年のレークプラシッド五輪にソ連代表選手として出場。決勝で米国の学生選手たちにまさかの敗北を喫した「氷上の奇跡」の苦い体験者となった。
ソ連崩壊後、ビリャレトジノフはNHL(ナショナル・ホッケー・リーグ)からオファーを受けた最初の人物だ。93年から97年にかけて、同リーグでアシスタントコーチとして、最初は「ウィニペグ・ジェッツ」(後のフェニックス・コヨーテズ)、次にシカゴ・ブラックホークスで指導にあたった。
ジンエトゥラ・ビリャレトジノフ氏=ロイター通信撮影
監督としてロシアの古巣ディナモへ戻ってから「カナダ仕込みのソ連のコーチ」と呼ばれた。
英語風に「ビル」と呼ばれていた彼は際立った手腕を発揮した。2000年、選手時代にかなわなかったロシア選手権優勝にディナモを導く。
ヘルシンキでの大敗後、ビリャレトジノフはメディアから身を隠し、なかなかインタビューに応じなくなった。しかし、いまも多くの人が首をかしげる戦術を使い続けている。
2組は攻撃に重点を置いて、ほかの2組は防御に徹しているため、ソチ五輪チームのフォワード陣はKHL(コンチネンタル・ホッケー・リーグ)のレベルで見ても強力とはいえない。
彼らは、あまりショットは打たないが、破壊力はある。そうしたスタイルに不満なファンはいる。ソチで優勝できれば、それもすべて許されよう。
ビリャレトジノフはソチ五輪で自分に何が求められているかが人一倍わかっている。「オリンピックでの監督の仕事は挑戦であり、自分を試し自分の知識を発揮する機会になる。自分にできる限りのことをやる」
4年後、スイスのチーム「ルガーノ」とロシア代表チームでの短期間の仕事を経て、ビリャレトジノフはタタールスタン共和国カザンのチーム、アク・バルスの監督になる。
多くの花形選手をそろえるまさに「世界選抜チーム」となり、同チームのその年の給与の総額は5000万~6000万ドルに達したという。
アク・バルス首脳陣は、タタールスタンの人気チームをモスクワ出身でタタール民族のビリャレトジノフに任せるのはうってつけと考えた。
しかし、期待は裏切られ、アク・バルスは皮肉にも、ビリャレトジノフのいないディナモに優勝をさらわれた。
大方の予想に反して、アク・バルスは監督を解任しなかった。翌年、チームは悲願の優勝を果たし、その後、2年連続でガガーリン杯の美酒に酔った。
ビリャレトジノフが守りのチームに育てたロシア代表チームは12年の世界選手権で10戦負けなしの完全優勝を遂げた。
1年後、マルキンとダツュクの天才プレーヤーを欠いたロシアチームは史上最悪の惨敗を喫してしまう。
ヘルシンキで行われた世界選手権の準々決勝で米国に8対3の大差で敗れた。ビリャレトジノフは試合後、「全く面目ない。こんな負け方は初めてだ」とじだんだを踏んだ。
ソチの大舞台で、名将が導く起死回生策の真価が問われる。
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