ロシア最大のシナゴーグに関する5つの事実(写真特集)

Alex 'Florstein' Fedorov (CC BY-SA 4.0)
サンクトペテルブルクの「大コラール・シナゴーグ」の建立は、19世紀末の地元のユダヤ人コミュニティにとって一大事件だった。

1.建立を許可したのは皇帝アレクサンドル2世

サンクトペテルブルクの「大コラール・シナゴーグ」

 1850年代まで、ロシア帝国には、ユダヤ人の居住区に関する厳しい法律があった。しかし、皇帝アレクサンドル2世は、居住制限を緩和した。その結果、ますます多くのユダヤ人の商人、学者、学生、職人がモスクワ、そしてもちろん当時の首都サンクトペテルブルクに移り住み始めた。

 市内にはすでに小さな礼拝堂があったが、人口が約1万人に達しなお成長を続けていたコミュニティには、より大きな礼拝堂が必要だった。そして1869年、皇帝はサンクトペテルブルクのユダヤ人に対し、市内にシナゴーグを建てる権利を与えた。皇帝を記念して、ここの結婚式場は「アレクサンドロフスキー結婚式場」と名付けられた。

2. 建設費を出したのは帝国で最も富裕なユダヤ人

ゴラツィイ・ギンツブルク男爵;1900年代のシナゴーグ

 建物の着工はようやく1883年。当初、適当な場所を探すのに長時間かかったが、結局、マリインスキー劇場付近のコロムナ地区で見つかった。

 しかしその後、建設費の調達に問題が生じ、結局、資金の大半は、帝国最大の富豪の一人、ゴラツィイ・ギンツブルク男爵が提供した。ギンツブルクは銀行家の家系の出で、在サンクトペテルブルク・ヘッセン大公国領事であり、大公より男爵の称号を与えられていた。そして、アレクサンドル2世はロシアでもその爵位を用いることを許した。

 詩人オシップ・マンデリシュタームの回想によると、ギンツブルクはユダヤ人コミュニティの生活向上に多大な貢献をし、シナゴーグでの礼拝では、栄えある最高の席をいつも占めていたという。ちなみに、鉄道王サムイル・ポリャコフも多額の寄付をした。

3.ムーリッシュ様式

 このシナゴーグの外観は、建築・美術の評論家であるワシリー・スターソフに負っている。ベルリンのシナゴーグと同様にムーリッシュ様式で建てることを提案したのは彼だ。コンペでは、建築家のイワン・シャポシニコフとレフ・バフマンが勝った。しかし、このデザインを皇帝は承認しなかった。彼は、「より控えめな規模でプロジェクトをやり直す」よう命じた。

 建設は10年間にわたり、竣工は1893年。上のような経緯にもかかわらず、結果としてこの建物の規模は驚くべきものとなった。ロシア最大のシナゴーグであり(1200席の礼拝堂を備える)、ブダペストのシナゴーグに次いでヨーロッパで2番目の大きさを誇る。巨大なドームは遠くからでもそれと分かり、街の建築群の中でも目立っている。サンクトペテルブルクでは珍しいテラコッタ色とオリエンタルな雰囲気が特徴だ。

 内部では、豪華な装飾が施された「アロン・コデシュ」(祭壇を思わせる聖櫃)がとくに目を引く。そこには「トーラー」(『旧約聖書』の最初の5つの書)の7つの巻物が収められている。聖別の際にここに持ち込まれたものだ。

4.ソ連時代も短期間閉鎖されたのみ

 革命後、ロシアのユダヤ教徒は、他の宗教の信者と同様に迫害された。それでも、ユダヤ人コミュニティは1929年夏まで存続していたが、ブルジョア的傾向とナショナリズムのかどで解散させられた。1930年1月17日、レニングラード(現サンクトペテルブルク)当局はまた、シナゴーグも閉鎖した。ユダヤ人労働者はそこに通っていない、という理由で。

 しかし、ユダヤ人たちは、全ロシア中央執行委員会に苦情を申し立てた。これは、ソ連の最も重要な政府機関の一つだった。誰もが驚いたことに、これが結果をもたらした。早くも1930年6月にシナゴーグは再開された。とはいえ、貴重な財産が没収された――一部は「反宗教博物館」に、また一部は「ゴスフォンド」(国家備蓄)に移された。後者には、国有化された貴重品がすべて保管されていた。

 1940年代初め、当局は再びシナゴーグを閉鎖しようとし、建物を映画館とコンサートホールに転用することを提案した。しかし、戦争のせいでそれは実現しなかった。レニングラード包囲戦の時期には、死亡したユダヤ人の遺体は、シナゴーグの中庭に運ばれ、ユダヤ人のプレオブラジェンスコエ墓地の集団墓地に葬られた。

5. 1980年モスクワ五輪に向けて修復

 ソ連時代を通じて、シナゴーグは、秘密警察「KGB」の厳重な監視下にあった。すべての会合や礼拝には必ずエージェントが潜入していたという。ところが、モスクワでのオリンピック開催が決まったとき、驚くべきことに、レニングラードのシナゴーグが、旧首都の主な観光名所のリストに名を連ねた。そして、1980年の五輪の2年前に、国家予算を費やして修復されたが、修復は革命以来、初めてのことだった。

 ソ連崩壊後、シナゴーグとユダヤ人コミュニティは、歴史の新たな頁を開き、活発に発展し始めた。2003年のサンクトペテルブルク建都300周年を記念して、建物の大規模な修復が行われた。そして今日、「大コラール・シナゴーグ」は、地元のユダヤ人コミュニティにとって重要な文化センターであり、幼稚園、学校、慈善食堂、コーシャ店(ユダヤ教の食事法に則った食品を販売する)、レストランを運営している。

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