エイゼンシュテインの外遊、チャップリンとのテニス、スターリンとの確執、そして未完成のメキシコ映画

カルチャー
アレクサンドル・エゴロフ
 1929年の夏、トーキーの技術を学び、外国のスタジオと共同で映画を撮影するために、ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインは外遊に旅立った。しかし約3年後、長編映画を1つも製作しないまま、彼は多くの失望と傷ついた評判とともに帰国した。

 1925年12月、映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインは日記に「目覚めると、有名人になっていた」と記した。当時、彼の『戦艦ポチョムキン』がモスクワの映画館で華々しいデビューを飾り、映画製作における新たな水準を確立していた。エイゼンシュテインの助手を務めたグリゴリー・アレクサンドロフは後年、「観客は総立ちになり、我々の映画に喝采を送った。オーケストラは演奏を止めたが、それでも何も聞こえなかった。演奏者たちも観客と一緒になって、映画を祝福してくれた」と、映画の封切り時を回想している。 

 『戦艦ポチョムキン』は、革命への賛歌だった。エイゼンシュテインは心からボリシェヴィキを支持していた。1917年10月の革命が彼の運命を決定づけ、クリエイターとしての形成に大きく影響したと、何度も言及している。

 その後、『戦艦ポチョムキン』は国外でも公開され、ロシア人監督による革命的映画作品は世界を魅了した。ベルリンでの封切りでは、スウェーデン国王グスタフ5世が熱烈な拍手を送った。チャーリー・チャップリンは本作を、これまで見た映画の中で最高の作品と語った。後に、ナチスドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスさえ、次のように評した。「素晴らしい映画だ。映画的観点から言って、全く比類の無いものだ。確固たる信念の無い人間なら、これの鑑賞後にボリシェヴィキになるかもしれない」。 

 しかし、『戦艦ポチョムキン』のイデオロギー的要素は、他の国々にとっては問題だった。革命を賛美する作品の成功をドイツ政府は快く思わず、ほどなくしてドイツ国会では本作を、「暴力を称賛し、当局に対する不満を煽り、大衆を扇動するもの」として禁止する提案がなされた。しかし、そうした措置が作品に対する更なる感心を喚起するのを政府は懸念し、禁止には乗り出さなかった。その頃、ロンドンでは鉱山労働者による大規模ストライキの真っ最中であったため、『戦艦ポチョムキン』は上映を一切許可されなかった。だがそれでも、作品は地下で流通して大きな人気を博した。

 いずれにせよ、映画が芸術分野として認知されたのは『戦艦ポチョムキン』が世に出てからであり、エイゼンシュテインは世界最先端の監督として認知された。ところが、やがて次の革命がアメリカで起きる。それが、トーキーであった。ソビエトの映画にもサウンドを取り入れる必要があることは、外ならぬエイゼンシュテインが誰よりも理解していた。彼はハリウッドに渡って、西側の技術を学びたいと切望するようになった。そこでエイゼンシュテインはスターリンと個人的な面会にこぎ着け、1929年に映画『全線~古きものと新しきもの~』の撮影を完了すると、出国の許可を得た。

 欧州で足止め

 助手のグリゴリー・アレクサンドロフ、自作の撮影監督を務めてきたエドゥアルド・ティッセを伴って、エイゼンシュテインはハリウッドへ向けて出発した。最初の目的地はベルリン。当時はソ連とアメリカに国交が無く、モスクワではアメリカビザを取得できなかったためだ。強固な反共主義だったアメリカがソ連を承認したのは、1933年である。エイゼンシュテインは以前にもUnited Artistsからアメリカに招待されており、ベルリン到着後に同社に連絡したが、送られてきた電報は、「今アメリカに来るのは賢明ではない」というものだった。一行は半年以上もヨーロッパに滞在することになった。

 エイゼンシュテインはベルリン、ハンブルグ、チューリッヒ、ロンドン、パリ、ブリュッセル、アムステルダム、アントワープなどの各都市をまわり、映画理論とソ連映画に関する講演を行った。欧州を周遊するにつれ、エイゼンシュテインの交流範囲も急速に広がっていき、当時の最も名高い映画関係者や作家たちと知遇を得た。バーナード・ショー、ジェイムズ・ジョイス、ベーラ・バラージュ、レオン・ムシナック、ジョージ・バンクロフト、ジョセフ・フォン・スタンバーグ…誰もが、あの偉大な『戦艦ポチョムキン』の監督と会いたがった。

 10月革命の信奉者であったエイゼンシュテインは、公演中も自らの政治的な立ち位置を一切隠さなかったため、訪問先の国々の政府から警戒された。チューリヒの労働者街での一連の講演のあと、スイス警察によって国外退去させられた。エイゼンシュテインはフランスとイギリスで映画『全線~古きものと新しきもの~』に音声をつける交渉を試みたが、ついに資金を調達できなかった。

 ヨーロッパ滞在が長引くうちには生活費を稼ぐ必要も生じ、エイゼンシュテインは何度か商業的プロジェクトも手掛けている。一例として、エイゼンシュテイン一行はパリの宝石商レオナルド・ローゼンタールからの資金提供によって、短編映画『センチメンタル・ロマンス』を製作している。ローゼンタールが提示した条件は、彼の愛人のマーラ・グリーが主演することだった。この作品によってエイゼンシュテイン、アレクサンドロフ、ティッセの3人は巨額の報酬を得たのみならず、トーキーに取り組むことも可能になった。『センチメンタル・ロマンス』は評価こそ分かれたが、エイゼンシュテインが初めて製作したトーキーであった。

 なお、エイゼンシュテインは本国に自分の移動先を逐一報告し、ソ連の報道機関に電報を送る義務を負っていた。国外に出てからソ連との関係を一切断つ、いわゆる「非帰国者」になる危険性が常に考慮されていた。独立した映画監督としてではなく、ソ連代表として欧州に滞在しているという感覚を保ち続けるよう、エイゼンシュテインは努力していた。

 1930年4月末になってようやく、エイゼンシュテインは念願のハリウッド行きが現実となる。Paramount社と契約してビザを取得し、アメリカに向けて出発した。ソ米両国で撮影を行う何本かの映画を構想していたが、それはあまりにもナイーブな期待だった。

「アカ」のアメリカ滞在

 ソ連からアメリカにやってきた映画人たちが真っ先に会ったのが、無声映画の大スター、チャーリー・チャップリンだった。エイゼンシュテイン一行がトーキーを学ぶためにハリウッドにやって来たと聞いたチャップリンは、笑ってこう言ったという。「ハリウッドでは映画を作ってるんじゃない、大金を作っているんだ。映画芸術は『戦艦ポチョムキン』が作られている場所で学ぶべきだ」。このエピソードは、グリゴリー・アレクサンドロフが著書『映画の世紀』(1983年)で回想している。

 エイゼンシュテインは頻繁にチャップリンの別荘を訪れた。2人は毎日のようにテニスに興じ、プールで泳ぎ、映画論を交わした。エイゼンシュテインは、自分とチャップリンはよく似ていると感じていたらしい。2人とも探求心が旺盛で、仕事人間で、短気かつ子供っぽい残酷さを併せ持っていた。唯一、エイゼンシュテインが理解できなかったのは、チャップリンが退屈なハリウッド生活を送っていることだった。社交場で映画スターたちの話題に上がるのは、いつも、不動産と金、ゴシップとブリッジばかり。エイゼンシュテインはそのような生活にはまるで魅力を感じられず、常に正反対の生き方を志向していた。

 エイゼンシュテインはウォルト・ディズニーのスタジオも訪問し、何度も称賛を込めて書き残している。「彼の作品を恐ろしく感じることがある。その作品の、完璧さとでも言うべきものが恐ろしい。この男は技術的な奥義を極めているだけでなく、人間の思考やイメージ、感情や心理の最も奥深い琴線を熟知しているかのようだ。彼はあたかも理論や合理性や経験による束縛を受けていないかのように創作する。最も驚くべきディズニーの作品は、『水中サーカス』だ。どれほど純粋かつ明瞭な魂があれば、このような作品を作れるのか。泡や泡のような仲間たちと、手付かずの自然にどれほど奥深くまで潜れば、あらゆるカテゴライズや約束事から絶対的に自由になれるのか。子供のようになれるのか」。

 Paramountはエイゼンシュテインに賭けており、PR部門はすぐに彼をハリウッドでプッシュした。マスコミにはアメリカの映画スターと一緒に写るエイゼンシュテインの写真が載り、彼の映画作品を称賛する記事で溢れた。

 しかし同時に、正反対の論調も出始めていた。フランク・キーズ少佐なる人物は、「地獄からの使者エイゼンシュテイン」と題した小冊子を頒布した。まずはParamount社に送り付け、同社から納得のいく返事が無いと分かると、大手メディアの編集部に配布した。その小冊子の中でキーズ少佐は、エイゼンシュテインを危険なユダヤ人コスモポリタンとみなし、革命後にボリシェヴィキが起こした数々の犯罪について、その責任を追及するなど、さまざまに中傷した。

 キーズ少佐は、エイゼンシュテインがソ連の工作員であり、その目的はアメリカ国民の洗脳にあると確信していた。「ユダヤ人の司祭や出版人たちに、赤い犬どもやエイゼンシュテインのようなサディストどもを輸入してはならない、とあなた方に語る勇気が無いなら。歴史上かつて無かったほど多くを与えたこの土地に対する忠誠心があなた方に無いなら、そのことを理解する脳も足りないというのなら、こちらから言わせてもらおう。我々は、彼を国外退去させるために全力を尽くす。我々は、これ以上赤いプロパガンダが我が国で垂れ流されるのを看過しない。あなた方は、アメリカ映画界を共産主義のゴミ溜めにしたいのか?」

 こうした文章はキーズ少佐の精神状態に懸念を抱かせるものであったが、それでもなお、この小冊子はアメリカ世論に波紋を広げた。Los Angeles Timesの記者は、ハリウッドでのエイゼンシュテインの活動について、「Paramountは、ロシアの政府の委託でプロパガンダ映画を製作した人物ではなく、別の監映画督を見つけられたのではないか」と書いた。

 大富豪キング・ジレット邸の晩餐会では、ある女性客がエイゼンシュテインに、なぜ皇帝一家の銃殺を阻止しなかったのか、と訊ねた。エイゼンシュテインは、多くのアメリカ人の心情が、彼に対して少なくとも警戒的になってきているのを感じた。

 半年間のアメリカ滞在中に、エイゼンシュテインは『ガラスの家』、『サッターの黄金』、『アメリカの悲劇』の脚本を書き上げる。Paramountは、前者2つはその反資本主義的内容のため拒否したが、『アメリカの悲劇』には強い関心を抱いた。原作者のセオドア・ドライサーも、エイゼンシュテインの脚本を高く評価した。エイゼンシュテインは、初めて心の声の表現メソッドの導入を構想し、主人公の内なる世界の描写を試みようとした。

 しかし1930年の秋、アメリカは反ソ感情が激化。激烈な反共主義であったハミルトン・フィッシュ議員は、ハリウッドにおける「共産主義活動」の調査を開始し、そのリストにエイゼンシュテインの名も挙がった。エイゼンシュテインはParamountのオフィスで、彼の脚本は1つも映画化できないと告げられた。同社は契約を解除し、モスクワまでの3枚のチケットの負担を約束した。 

 外遊に出発してから1年以上。いまだ長編映画は1本も製作されていなかったが、まだエイゼンシュテインは諦めていなかった。アメリカを出国する直前、彼は左派の政治活動家で作家のアプトン・シンクレアと知り合った。シンクレアは仮題『メキシコ映画』の撮影のために出資を承諾。1930年12月、エイゼンシュテインらはメキシコに旅立つ。

Que viva México!

 エイゼンシュテインの映画のためにシンクレアが設立したMexican Film Trustは、メキシコの風習やエキゾチックな風景を盛り込んだ観光パンフレットのような映画がすぐに製作されると期待していた。しかし、計画は出だしからつまずいた。

 1929年3月にメキシコ政府は共産党を非合法化し、共産主義者の入国を禁止していた。エイゼンシュテイン、アレクサンドロフ、ティッセらはメキシコ到着の2週間後に拘束され、尋問を受ける。窮地を救ったのはシンクレアの妻メアリー・クレイグ・シンクレアだった。彼女はエイゼンシュテインの解放キャンペーンを張り、チャップリン、アルバート・アインシュタイン、ダグラス・フェアバンクス、ジョージ・バーナード・ショー、さらに2人の国会議員を味方につけた。有力者から次々に電報を受け取った警察はエイゼンシュテインらを釈放し、一転、彼らは国賓として迎えられた。

 メキシコシティ滞在中、エイゼンシュテインは画家のディエゴ・リベラと行動を共にする事が多かった。彼らは1928年にモスクワで知り合っていた。リベラはエイゼンシュテインに妻のフリーダ・カーロや、ロベルト・モンテネグロ、ジャン・シャルロらを紹介した。エイゼンシュテインはメキシコ文化に熱中し、美しいだけで空虚な旅行者向けの映像作品よりも、もっと壮大なものを撮りたいと思うようになった。プエブラやグアダルーベで闘牛やフィエスタを撮影し、タスコとアカプルコを訪れた。ユカタン半島でマヤ文明の歴史に関心を抱き、植民地化以前のメキシコの力強い文化をフィルムに収めた。太平洋沿岸のテワンテペクでは熱帯の風景に心奪われ、現地の母権性社会を研究した。

  エイゼンシュテインは映画の構想を大きく広げ、タイトルも「メキシコ万歳!」に変更。ストーリーも、複数の時代にまたがる小編に分けられた。しかし、壮大な計画はスポンサーを喜ばすものではなかった。撮影は長期化し、費用も急速に膨らんでいった。9月にはシンクレアが作品の明確な完成時期を設定するよう求めた。さらにシンクレアはモスクワに電報を打ち、ソ連指導部に対し、映画の製作費用を部分的に補償するよう求めた。

 ところが、この頃にはエイゼンシュテインとソ連政府の関係もこじれていた。1931年夏、ソ連映画協会長のボリス・シュミャツキーはエイゼンシュテインにしきりに帰国を促したが、エイゼンシュテインは電報を無視した。これが間違いだったことは、ほどなくして明らかになった。11月、シンクレアはスターリンから直々に、以下のような手紙を受け取った。

 「エイゼンシュテインはソ連の同志の信頼を失いました。彼は、祖国と関係を断った脱走者とみなされています。恐らく、人々はやがて彼に対する関心を失うでしょう。残念ながら、これらは全て事実です。貴方のソ連訪問計画が実現することを祈っています。 スターリン」。

 1932年初頭、シンクレアは映画への出資を完全に停止。エイゼンシュテインはついにメキシコを舞台にした叙事詩を完成させられず、8万メートル分の撮影済みフィルムをスポンサーに渡した。エイゼンシュテインはソ連政府がシンクレアからこのフィルムを買い取り、モスクワで編集作業を続けられると期待したが、ついに実現しなかった。 

 その後、ハリウッドではいくつかの映画作品で、エイゼンシュテインが撮影したメキシコの映像を使用した(『Thunder Over Mexico』、『Viva Villa!』、『Death Day』、『Time in the Sun』)。しかしいずれも、監督の当初の意図からは大きく外れたものだった。一方、ソ連で映画『メキシコ万歳!』が公開されたのはシンクレアの死後の1979年。編集は、老年のグリゴリー・アレクサンドロフが行った。アレクサンドロフは、師の当初の構想になるべく忠実になるよう努力した。

 1932年5月、エイゼンシュテインはモスクワに戻ったが、冷遇された。6年後、愛国映画『アレクサンドル・ネフスキー』を製作したことで、ようやく評判を回復した。しかしついに従順なクリエイターにはならなかった。

 1946年、『イワン雷帝』の第2部に込められた政治的意味付けがスターリンの逆鱗に触れる。映画を撮り直すまで、エイゼンシュテインは映画製作を禁止された。映画から遠ざけられたことをエイゼンシュテインは非常に気に病み、健康を蝕んだ。セルゲイ・エイゼンシュテインは1948、心臓発作で死去。50歳だった。自らの理念への忠実さは彼を偉大な映画監督にしたが、同時に彼自身を破滅させもしたのである。

 あわせて読む:セルゲイ・エイゼンシュテイン生誕125年:5つの天才の証明>>>